1ー5「然うして僕らは」
うつ伏せ状態で微動だにしない少女の、頭や腹付近の地面には血が溜まっている。
フードが外れて地面に顔を突っ伏している彼女を見て視認できたのは、所々血で染まっている藤色の長髪。
すでに死体だと思われる少女を殺した犯人は状況から考えて、目の前にいる角狼だろう。
そしてこの角狼もまた、獲物を狙う鋭い目付きでこちらを睨みながら、低く唸っていた。
すぐさまオールで漕ぐのをやめても、残っている小舟の推進力で間隔およそ一メートルのところまで近づいてしまう。
その瞬間、大きく口を開けた角狼にバクッと咬まれそうになったが――
「ぎゃぁあああああッッ!!」
間一髪スレスレで躱し、空振りで事なきを得た。
大至急、小舟を半回転させて引き返す。
「なんでもう一匹いるんだよぉおおおおおおおおおおッッ!! …………ぎゃぁあああああッッ!!」
後ろを見ながら――ローブの少女を殺したであろう角狼を見ながら漕いでいたため、気付かぬうちに戻りすぎて、元いた川岸の近く――元々僕を追いかけていた角狼の近くまできてしまった。
その瞬間、ついさっきと同様、角狼にバクッと咬まれそうになったが――間一髪ギリギリで躱し、再び引き返す。
中間まで戻りながら、僕は川の流れる方向に小舟を全力で漕ぎ始めた。
「挟まれてるじゃねぇええかぁああああああああああ――――ッッ!!」
両岸にいる角狼二匹がこちらを凝視しながら追いかけてくる。
陸に戻りたくとも、無論、そんなことが角狼たちに許されるはずもない。
この状況は非常に絶望的といえ、早くも長期戦が期待される――と、そんな予想を立てた僕だったが。
――この現状は、思いのほか早く幕を閉じた。
僕の小舟の流れている川は、すぐに幅百メートル程の大きな川と繋がった。
その川に入ると同時に、左右の川岸が自ずと断ち切られたのだ。
そして、この角狼二匹は、川には入ってこられないはず。
繋がった大川を五メートル程進んだところで、僕は期待を込め――後ろを振り向く。
そう。
後方の川岸にいる角狼二匹はその場で立ち止まり、再びグルルルルと唸り始めていた。
どうやら今度こそ、角狼はこれ以上追いかけてこられないようだ。
僕は正面に向き直りながら、
「ふぅ……」
額の汗を拭い、安堵の息を漏らす。
――が、それも束の間。
どうやら僕は逃げるのに必死で、
「えぇっ!?」
川の奥行きは――
詳細に言うと、僕の先の川水は水平ではなく、
そう、ここは――
「さっきの滝じゃねぇかっ!?」
どうやらイノシシと角狼に追いかけ回されていた間、僕は無意識のうちに山を上へ上へと登っていたようだ。
「やばいやばいやばいやばいやばいッッ!!」
気付いた頃には、もう時すでに遅し。
滝へと続く川の流れる速度は、急激に速くなっていた。
引き返そうと小舟を半回転させ、オールで漕ぐが、川の流れに逆らえず、滝に吸い込まれていく――
十メートル――八メートル――六メートル――四メートル――
このままいけば、滝に落下してしまう。
下に湖のように大きい、水深もそれなりに深そうな滝つぼはある。
けれど、あるものの、だ。
落差五十メートル程あるここから落ち、重力により加速した僕の身体を無事に受け止めることは不可能だろう。
かなりの高さから着水したら水もコンクリートのように硬くなるという話を聞いたことがある。
今回の場合がまさにそれ、全身骨折――いや、普通に死ぬ。
――万事休す。
そして――絶体絶命。
それでも僕は諦めず、最後まで小舟を全力で漕ぎ続ける。
「やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい――」
――その時。
「うっ!?」
その眩しさに僕は思わず目を瞑ってしまう。
しかし光は一瞬にして収まったので、すぐに目を開けた。
「っっ!?」
目の前にあったはずの剣が――
いや、ただ無くなっているのとは訳が違う。
その代わりのように――
小舟の足元にいたのは――『
淡緑色で小柄な――
「……ふぁぁ~あぁ。ヒャリナおはようミル。って言ってもミィはこの千年『無』になっていただけミルからミィからしたらついさっきのできご……ってウギャアアッ!!」
眠そうに目を擦りながらよくわからないことを言っていた兎が視認したのは、すでに残り一メートル程まで迫っていた、滝口。
眠気が一気に吹っ飛んだような兎が叫ぶと同時に、小舟は滝に落下した。
途端、乗っていた小舟から振り落とされた僕と兎は、宙に放り出されてしまった。
「うわぁああああああああああああああ――――ッッ!!」
「ミャァアアアアアアアアアアアアアア――――ッッ!!」
頭から滝に落下中の二つの絶叫が島中に響く。
僕、そしてどうやらこの兎も、お互いに興味を持つ余裕なんて一切ない。
共に涙がこぼれていて、視線は滝つぼに釘付けだ。
あっという間に滝つぼの水面まで残り十メートル程まで迫ったところで――兎が左腕を下に突き出した。
「ミャァアアアアアアアアアッッ!! しょうがないミルっ! ――《リダヒシ》!」
兎が言うと、僕と兎の落下推測地点の水面スレスレに、何処からともなく現れたのは、広々とした面積を持つ『平面な黒紫色の正方形』。
紙のように薄っぺらいそれは、何故か宙に浮いている。
……何かの板?
そう思ったが、否、違う。
その正方形の中には『
ただひたすら闇に包まれている、底が見えない、空間が広がっている。
「うわぁああああああああああああああ――――ッッ!!」
「ミャァアアアアアアアアアアアアアア――――ッッ!!」
未だ鳴り止まない二つの絶叫。
そしてそれすらも呑み込んでしまいそうな闇の空間。
僕と兎は共に、重力に従い、包み込まれるように、そんな空間に。
――沈んでいくのだった。
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