第5話
残業で遅くなるとか、出張だとか、いろんな言い訳をしてくる夫に「お気をつけて」「頑張ってくださいね」「いってらっしゃい」と笑顔で送り出す妻。
知らないシャンプーの香りがしても、首にキスマークを発見しても見ないふりをする。
そんな私に対して、浮気がバレてないと思っているのか、雄一さんは普通に接してくる。
あまり会話はないが、いつも彼の傍に寄り添っていた。
たまに話しかけられたら凄く嬉しい。
彼の話は熱心に聞くし、褒めることは忘れない。
夫にとって何も文句を言ってこない妻ほど楽なものはないだろう。
彼は自由を満喫しているようだった。
「久しぶりに、雄太を遊びに連れて行ってやろうと思ってるんだ。今度の日曜は雄太、お出かけしような」
仕事から帰って来て、雄一さんはそう言って雄太を抱き上げた。
「どこに連れて行きますか?パパとお出かけできるなんて雄太は喜ぶと思います」
久しぶりの家族水入らずだ。嬉しかった。
買物へ行くのも、公園へ行くのもいつも私と雄太の二人だけだった。
町を歩く家族連れを見て、羨ましいと思っていた。
「動物園へ行こうと思っているから、準備を頼むよ」
雄太は動物園に行った事がない。初めての経験だ。私は胸が躍った。
「暑くなりそうだから、帽子を持っていかなくちゃね。移動は車ですよね?」
「ああ。君は留守番してくれてかまわない」
「……え?」
「いつも、雄太の世話を一人でしてくれているからな。たまにはゆっくりすればいい」
「え……私、も、私も一緒に行きます」
「君は来なくてもいい」
なんと言っていいのか分からず、言葉が出ない。
私は行っては駄目なんだ。
一気に気が沈む。
表情をみられないように、キッチンに向かった。
河合愛梨と夫と雄太……
三人で動物園に行くんだ。
込み上げてくる涙を必死に堪える。
「ありがとうございます。そしたら、私はゆっくりさせてもらいますね」
そういって蛇口から水を流し、食器を洗い始めた。
鼻をすする音が聞こえないように、綺麗な鍋も取り出して、ゴシゴシと底を洗い始めた。
雄太を……取られる。
夫のする事に文句は言わないと決めた。
良妻である自分を演じなければならない。
夫が雄太を連れて行くと言えば、やめてくれとは言えない。
私は震えながら、雄太と雄一さんが動物園へ行くための準備を始めた。
前回の記憶では、雄一さんが雄太を動物園へ連れて行くことはなかった。
一度目のこの時期、私は狂ったように不倫を責め立てていた。
家庭が崩壊する寸前だった。
だから夫が雄太を動物園に連れて行くなんてできなかっただろう。
私がものわかりの良い妻になったせいで、今回の事案が発動した。
未来は変わるんだ。
そう確信する。
◇
雄一さんが雄太を連れ出している間に、私は探偵事務所に来ていた。
月に一度はここを訪れている。
土日に依頼が多いらしく、探偵事務所は繁盛しているようだった。
「今日はうちの探偵がご主人を尾行しています。報告はスマホに送られてくるでしょう」
「ありがとうございます。家に引き籠っていると、息子の事が気になって仕方がないので今日呼んで頂けて良かったです」
ここの探偵は、高い金額を支払っているだけあって優秀だった。
河合愛梨が子を産めない理由が分かったという連絡が来た。
探偵は婦人科の看護師を抱き込んで、河合愛梨が何故妊娠できないのかを調べていた。
「中絶手術による合併症によって不妊症になったようです。河合愛梨は今までに3回人工中絶を行っています」
「3回も!」
「はい。彼女は中絶手術を行った際の感染症で子宮内膜に癒着が起きたらしいです」
「3回も中絶をしているの?夫の子ではないですよね?」
「そうですね。相手は3回とも違う人物ではないでしょうか。時期もバラバラですから」
探偵は汚いものでも見るかのように、河合愛梨の資料をめくった。
「なんてことなの、それって……自分の責任じゃない!」
同じ相手ではなく複数の男性との間の子ども。彼女自身の避妊に対する考え方があまいとしか思えない。
結婚前提でもないのに、関係を持って避妊をしないなんて信じられない。
夫が河合愛梨を愛せるはずがない。
「そしてですね、ご主人はそのことを知っていると思われます」
「うそでしょ!」
私は驚いて思わず立ち上がった。
中絶で子どもが産めなくなったことを知っていて、それでも彼は彼女との関係を続けているの?
自分にも子どもがいるというのに、子の命を奪った女を受け入れられるのだろうか。
「盗聴した内容を見ればわかると思うのですが、彼女が自分の口から子どもが産めなくなったと泣いている音声が入っています。ご主人は、慰めていた。間違いは誰にでもある。辛い事は忘れた方が良いとおっしゃっていました」
「信じられない……」
夫は子どもが産めない彼女に同情したのだろうか。
私は彼女のしたことは、同情の余地もない酷い行為だと思う。
その時、スマホが振動し、着信を知らせた。
尾行している探偵から、夫たちの現在の状況が画像付きで送られてきた。
夫と雄太、そして河合愛梨の3人が動物園に着いたというものだった。
まるで家族のように入場ゲートにいる3人の姿が画像に映っている。
今しがた聞いた話が嘘のように、画像の中の女は清らかに見えた。
ショックのあまりこめかみを押さえて俯いた。
「本郷さん。気を確かに持ってください。ご主人の浮気の証拠は確実に撮影できています。ご主人は言い逃れできないでしょう。万が一裁判になったとしてもあちらに勝ち目はありません」
「はい」
「女性のほうにも慰謝料を請求して、きっちり別れてもらいましょう」
「……はい」
この時はまだ、『きっちり別れてもらえる』という言葉を私は信じていた。
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