第10話
ひなたちが移住を完了してから数日が経過した。
生まれ育った街から離れることに抵抗感はあったが、日を重ねるうちにそれは薄まっていった。生存競争から解放された住民たちは、人間らしい暮らしを始めている。
あの街で戦っていたのはひなだけ。その役目も尊たちが引き受けてくれた。
「何をすればいいのでしょう……」
暇を持て余したひな。この日は、皆を見習って趣味を始めてみることにした。
「そうですね……お料理を!」
それなりの食事が作れたが、継続するほどには情熱を注げなかった。
「では……絵でも書いてみましょう!」
ミミズののたくったような波打つ線が描かれていく。弓と矢を構えた憧れの女性を描いたようだが、熱中できなかった。
「むむむ……」
その後も、ひなはありとあらゆる趣味を試したがイマイチ夢中になれなかった。
「どうしましょうか……」
家の外に出て寝そべってみる。尊が作り出した小さな太陽を見上げてこの後のことを考えていると、
「何やってんのよ? 日向ぼっこ?」
芽衣が声をかける。
黒いジャケットの手入れをしていたようで、半袖の薄いインナーと黒のズボン姿という露出が激しい姿だ。インナーが短いようで動くたびにへそがチラチラと見えている。
「芽衣さん……実は……」
ひなは事情を説明すると、
「アンタって、他人を助ける以外に興味ないの?」
「……その、興味といいますか……暇な時間がなかったものですから……」
「分からんでもないわ。……そうね、どこか行きたい場所ある?」
「行きたい場所ですか?」
「そそそ、会いたい人でもいいんじゃない? そういう小さなことを順繰りやっていけばいいんじゃないかしら?」
「そうですね……むむむ……――ッ!?」
何か思いついたようだ。
「芽衣さん! 天蓋の奥に行ってみたいです!」
ひなは瞳を輝かせ芽衣の瞳を覗き込む。
「えぇっと……天蓋の奥?」
「はいっ!」
キラキラと輝く大きな瞳には穢れが一切ない。人の手が入っていない積雪のように、触れることを躊躇うほどに真っ白だった。
「……それじゃ、ちょっと待ってて。準備するから」
「お供しますっ!」
背中を丸めゆっくりと歩く芽衣。その後ろをちょこちょこと付いていくその様子は、生まれたての雛のようだった。
芽衣が準備を終え、ひなの要望通りに天蓋の奥へ向かう。
「天蓋の奥っていっても沢山あるのよね。ほら、ドームって全体を円形で囲ってるでしょ? 陸地の端は大体が奥ってなるのよ」
「これって、本当のドームなんですね……」
「らしいわよ。といっても、噂でしか知らないけど。私は外に出たことないから」
「外って出られるんですか?」
「えぇっと……あった、はい」
芽衣はジャケットの内ポケットから名刺を取り出すと、ひなに手渡した。
「ありがとうございます。……タクシーですか?」
名刺には、電話番号と可愛らしいおじいさんのマスコットが描かれていた。
「そうそう、この人の力ならドーム間を行き来できるのよ。ひなも、外に行きたくなったら使いなさい」
二人は住居の奥に広がる森林の中を歩いていく。
三十分ほど経過すると、人が立ち入らないためか足元が悪くなっていく。ジメジメとした湿気が多い空気と虫の音が不気味な雰囲気を作り出す。
すると、
「ひな。……見える?」
芽衣は手元のライトを直ぐそばの木々の向こうの空へ向ける。
白く輝く光りの柱の先には、
「あっ!? あれが……天蓋の奥ですか!?」
緑色の木々の奥に灰色の壁が姿を現した。
天蓋の雰囲気に飲まれていたひなは、
「ってダメですッ!?」
芽衣の手からライトをひったくり、
「――ちょッ!?」
慌ててライトを消すとその場にしゃがみ込む。そして下から腕を伸ばし、芽衣を地面に引きずり込んだ。
「うぉっ――どうしたのよ?」
「芽衣さんッ!? ――出雲に見つかったら危ないですよ!?」
声を潜ませ、辺りの茂みをせわしなく見渡す。敵の強襲を警戒しているようだ。
「あぁ、なるほどね。ひなの心配は最もだけど、ここだけは安全なのよ。ほら、誰も来ないでしょ?」
「……いつもとは違うのですか?」
ひなも警戒を解き、芽衣にならい座り込む。
いつもなら一分足らずで出雲兵が現れるが誰も来ないようだ。
「そうねぇ、どう話せばいいのかしら。……ちょっと血生臭い話になるけどいい?」
芽衣の悲し気な表情からナニカを察したのだろう、
「……はい」
ひなは真剣な表情で頷いた。
「まず、このドームの端まで行こうって考えは間違ってはないの。これが出来て数年は、その動きをとる人は沢山いたらしいわ」
「いたらしい……ですか? 過去形ということは今はもういないのでしょうか?」
「そうね。この先に行ったらその理由も分かるんだけど、全員死んだのよ。あの場所で。……本当に行く?」
苦笑いする芽衣の言葉を聞いて、ひなはその先の言葉を理解したようだ。
「……それでも行きたいです。私は、この世界を知らな過ぎます。もっと知りたいんです。そうしないと、この世界では何も成せないと思いますから」
”世界を知らなすぎる”。
現在のひなを象徴している言葉だ。かつての自分と同じく飛び立ちたいと願う雛鳥が覚悟があると産声を上げた。ならばこそ芽衣も覚悟を決めた。
(もしかしたら、ひなとは……これで最後かもね)
軽やかに立ち上がった芽衣は、僅かな寂しさを孕んだ右手でひなの手を引く。
そして、ゆっくりと木々の間を抜けていく。
「何人もの人間がここに来た。天蓋を壊そうとしたの」
辺りに漂う空気が変わった。湿気が凍りついたように消えていき、温度がグッと下がっていく。
「何百人、何千人かもしれない大人たちがこの奥に消えていった。帰ってきた人はいなかったの」
空気だけでなく、芽衣の言葉そのものが冷たく感じる。ひなの全身に悪寒が走った時だ、
「それは――ッ!?」
ひなの喉が衝撃でギュッと締め付けられ、声がかすれ死人のような声になる。
ライトに照らされた赤一色の壁がそうさせたのだ。
碧に生い茂っているはずの木々も、茶色であるはずの地面までもが赤色に染まっていた。鮮血のような明度の高い赤ではなく、黒色が大多数を支配する赤色だ。
「…………っ」
ひなはその場に立ち尽くしている。
数十秒は呼吸を忘れていた。
「ッ――これが、天蓋の奥」
ようやく呼吸が出来たかと思うと、辺りに漂う鉄の臭いがひなの全身に駆け巡る。
この世界では血を見ることが多い。この程度の血の量ならば何度も見たことがあり、これだけで正気を失うことなどない。ただ、この場は異質だ。
「あるがままの事実として受け入れなさい。そうしないと、引き返せなくなるわ」
芽衣はどこか透明な壁を通してこの光景を眺めている。一歩引いた姿勢でこの場と相対していた。
ひなは芽衣の言葉を理解した。この光景とこの場の空気は呪いにも似ている。
「……万人の血が漂っています」
ひなは一歩踏み出す。
血でぬかるんだ地面に足跡を残しながら近づき、天蓋に手を伸ばす。
そして触れた。表面に刻まれた複数の浅い傷を指で何度もなぞる。
砂利が混ざったコンクリートのようなザラザラとした表面をしているが、その素材は未知の物だと分かる程に異質な物だった。
「天蓋を壊そうとした人たちは、無念にもこの場で殺された。……これは木の枝や爪の傷です」
ひなは、背後に広がる木々の違和感にも気が付いた。
ゆっくりと振り向き、芽衣の背後に広がる赤色の樹木へ視線を彷徨わせる。
「……この赤色は、皆さんの血の色ですね」
「そうよ。ここらの木で何人も首をつっているのよ。外に広がる世界に行きたいって無念を抱えたままね。そこの地面もこの木も、そんな人間の血を吸ってるから、ずっと赤く染まってるわ」
ひなは想像した。
絶叫をしながら自殺する人間の姿。恋人と一緒に首をくくる者。泣きながら壁をかきむしる者。笑いながら死んでいく者。様々な人間たちが彼女の脳内で死に絶えていく。
「壁の外に広がる青い海の、僅かな潮騒に耳を澄ませ想像しながら死んでいった。外を知る世代が少ないのは、今と昔のギャップに苦しんだことによる自殺が原因なのよ。まぁ、天国から地獄に落とされれば正気を失うわよ」
「この世は地獄……ですか」
ひなは、興味本位でこの場に来たことを後悔した。
「この場に眠る皆さんの無念を遠慮なしに明かそうとしたのですね。……失礼なことをしてしまいました」
「まったく。何言ってんの――よっ!」
芽衣は、俯くひなの頭をポンと軽く叩いた。両目にたまっていた涙が、放物線を描き飛んで行く。
「軽々しく行動していいのよ。私だって、軽々しく言ってるもの」
「……ですが、死者の冒涜といいますか。当時の皆さんの悔しさを知らずに――」
「ひなってマジメよね〜。そいつらはもう死んでるのよ? 悔しさなんて分かるわけないでしょ?」
芽衣は語る。
「死ぬのっていつでも出来る。何だったらちょっとした転べば死んじゃうわ。生きるほうが難しいのよ。だから、死んだ人間に気を遣うよりは、生きるってことに気を使ったほうがいいと思うの。それでひなの興味とか、これからのことがいい方向に行くなら、そっちのほうがいいって私は思う。私は生者のために死者を利用するのは賛成よ」
芽衣は心の底から笑う。
その笑顔は、ひなが知らない”自分の考え”を秘めていた。それを知らないひなは、ただただ、芽衣の言葉を額面通りに受け取った。
「ひなはそのままでいいのよ。今も、私の言葉が正しいのかどうかって考えてるんでしょ?」
それを理解している芽衣は、また笑う。
「そ、それは……はい」
「はっはは、ホントアンタってマジメよね。でも、安心しなさい」
「安心ですか?」
「そう、安心よ。マジメちゃんはのんびり過ごしてなさい。このムカつく天蓋は、私たちがぶっ壊してあげるから」
芽衣はひなの背中を押し、この場を後にする。
(ひなは魅入られやすいのね。……引き際は弁えないと)
ひなが正気を失いつつあることを芽衣は理解していた。何年も前の傷跡を見ただけで、何でつけられたのかなど理解できるはずがない。木を見ただけで、そこで自殺したなど理解できるはずがない。ひなは知らず知らずのうちに、この場に漂う悪いモノを引き付けていた。
(何かを持っている。……死人を引き付ける、魅了する何かを……ひなは何者なのか)
芽衣は自らの考えに蓋をすると、
「ほら、これを刮目しろ!」
芽衣はひなの気を紛らわせるため、大げさな仕草でジャケットを脱ぎ、背中に描かれた赤色の太陽の紋を誇示する。
「尊と天照様は、天蓋を壊し空を取り戻すために戦ってるのよ。知ってるでしょ、あの二人の噂」
「はい。天照様の御子が各地の出雲拠点を破壊し、苦しめられている住民を解放していると」
「んで、次の目標は松江城なのよ」
「うぇッ!?」
「――うぉ、びっくりした!? そんな声出るのね?」
「そんなことよりもです!」
松江城という名前に驚き飛び上がったひなは、芽衣の両肩をぐわんぐわんと前後に揺さぶる。
「あの城には出雲の旗本(はたもと)がいるんですよ!? 旗本ですよ!? 槍使いの大男ですよ!?」
「旗本ってあれでしょ、幹部の……えっと、上から……将軍、大名、旗本の……旗本よね?」
「そうですッ! 松江城にいる旗本は、あの最強を誇ったレジスタンス総勢数百名を一人で壊滅させた男なんです! ビル群を豆腐のように両断し、あの近辺では最強を誇った御子を下した。出雲幹部はそこらの雑兵とは格が違うんです。確かに、尊さんは強いのでしょう。天照様のお力も凄いのでしょう。ですが、私は旗本の力をこの目で見ました……アレは人間の枠組みを超えていました」
「説明ありがと」
ひなの脳裏に焼き付く幼かったころの記憶。弓を携えた美しい黒髪の女性との僅か数日の思い出。そこで体験した沢山の出会いと別れが、正義と他者を重んじる丁寧な言葉遣いの彼女の土台を作り上げたのだ。
「あの方が、帰って来れなかったのです。芽衣さんや、尊さんも帰って来ないなんてこと……」
黒髪を伸ばし後ろ髪を低めにまとめてお団子状にする髪型は、憧れのその女性を真似している。ひなにとっての彼女の大きさを物語っている一つだ。
すると、後方に人影が現れた。
「不安ならばじっとしていろ。以前、助け合いの輪などと綺麗ごとを吐いたが、それを実行するかはお前次第だ。何もしなくとも、文句は出ないだろう」
山伏姿の尊が、ひなたちを迎えに来たようだ。
「天照様の傍にいなくてもいいの?」
「奴のいびきがうるさくてな。犬二体に任せてきた」
「なるほど――って!? もしかして、私を心配して迎えに来てくれたの!? そうよね?」
「――いや」
「嘘、い・わ・な・い・の♡」
芽衣の腕が鞭のようにしなると、尊の腕に絡みついた。軟体動物のようなその動きは、芽衣の執着が見せた幻だろうか。
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