第3話

最後に君の声を聞いてから3日経った頃、既に家の中は混沌とし始めていた。非常用のクッキー缶だの栄養補給剤だののゴミが積み上がっている。時々あるひどい天候不良の日に宅配便が遅延した時の蓄えだが、まあ緊急事態であることに変わりないので、と次々封を切っていたらこの有様である。風呂は2日にいっぺんしか入らなくなった。1人の頃の生活に戻った。色んなことを忘れていたから以前の失敗をもう一度踏襲する羽目になった。



出かける前何か言っていただろうか。どうせ読めないスケッチブックを忙しなくめくり、君の書いたいくつかの絵を往復する。ここ最近、雨ばかりだから紙は湿ってハリを失っていた。


うちには色鉛筆とか絵の具とかそういった類のものは無いのでモノクロだけの、ただし豊かな風景画ばかりが描かれている。


結論から言えば、彼女の家出に関する記述はどこにも認められなかった。

俺が読み取れないだけなのか、君の身に何かあったのか。そのほかにもいろいろな直視したくない懸念が浮かんで頭の中を埋め尽くす。


君はそういえば、聞けば真摯に答えるけれど、聞かなければ語らない人だった。

もっと問いかけるべきだったのだろうか。


埒が明かないのでアプローチを変更しようとスケッチブックを勢いよく閉じる。そうして最近の彼女の変化を思い返した。

艶やかな黒髪から色が抜けていったこと。

珍しく新しい服をいっぺんに3、4着ほど購入していたこと。

以前に比べてリアクションが大きくなっていたこと。

時たまする外出から帰ってくる時間が少しづつ遅くなっていったこと。



髪色については以前からコロコロ変わっていたし、特に気に留めることもなかった。

服を新しく買う、しかも一気に、というのは彼女にしては珍しい。だが別に家出のために新しい服を買う必要はないだろう。……外で会う誰かの好みに合わせるため、というならたしかにあり得るかもしれないが。

以前に比べリアクションが大きくなったというのも意思疎通を図るための適応だろう。俺もそのように意識している。


様々に逡巡して、ひとつの結論に落ち着いた。


この家の外に別の拠り所を見つけたんだろう、と。

言葉が通じる誰かと出会えたのかもしれない。彼女は、アズサは、既に独立した1人の女性である。大袈裟に心配するのも違うのかもしれない。


俺のせいでこの辺りは晴れの日も少ないし、気が滅入ってしまったのか。聞けばここに来る前にお世話になっていた人がいたらしいからその人の元へにでも帰ったのかもしれない。彼女の話ではその人はもう亡くなったとの事だったけれど。


まとまらない思考だけが部屋の中を巡る。身体はソファに沈み込んだきりひとつも動かない。とりあえず、何日か分有給を申請しようと思った。


その後は何をして過ごしていたのかもう覚えていない。ただ何か食べて、いつか寝たのだと思う。頭が痛かった。低気圧とか言うやつかもしれない。


数日後、ドアを叩く音がした。宅配便なんて彼女がいなければうちでは誰も頼まないから帰ってきたのか、と読んでいた本を栞も挟まず閉じてしまって、ドアを開ける。


「おかえり……。」

なんて言ったらいいかわからなくてとりあえず口にした歓待の挨拶はしりすぼみになってついに消え失せた。


ドアを開けた先には期待よりも大きな人影があったから。俺より上背があるので目が合わない。まだ寒い日もあるのに膝丈の短パンを履いて、上には半袖のよくわからんポロシャツを着ている。見上げて始めて豊かな白髪をこの雨でぐっしょり濡らし雷光で黒く影を落とす男の貌を認めた。白髪は彼女の色の抜けた黒髪によく似ている。

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