ep.29 職人の世界では見習い期間があるのは普通ですから

前回のあらすじ

Aは62歳の中村との面接を行う。中村は地元工場で管理職をしていたが、定年退職後の再就職を希望している。彼は武道で体を鍛えつつも、体力的な仕事は難しく、頭を使う職務を求めていると説明する。デジタル技術には疎いが、学ぶ意欲があると率直に語り、誠実で慎重な態度がAに信頼を抱かせる。しかし、占いビジネスに対する経験の無さと業界の特殊性から、Aは中村が適応できるか迷いを感じつつ、面接を終える。

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Aは頭を抱えていた。62歳の中村に面接をしてから数日が経過し、まだ決断には至っていなかった。中村は誠実で、経験も豊富だったが、果たしてうちの占い会社に合うのか? そんな思いがAの中で渦巻いていた。




さらに応募者を待つことにしてみると、55歳の女性が応募してきた。彼女は占いが好きで、趣味で長年続けてきたとのことだったが、仕事の経験はほとんどない。長らく専業主婦をしており、ビジネスの世界とは無縁の生活を送ってきたらしい。




Aは彼女の経歴を確認しながら、新崎をちらりと見た。新崎は、自分がモデルになった求人写真を見返しながら、「なんで私がモデルをやったのに、こういう応募者しか来ないの?」と、少し凹んでいた。Aは彼女が面白かったので、特にフォローせず、何も言わずにそのままにしておいた。




応募者の中から選ぶなら、中村しかいないだろう。Aはそう結論を出した。




11月、中村は正式に入社することとなった。Aは入社手続きを進めながら、少し不安を感じていた。中村に対して、会社の現状や、まずは個人事業主としてスタートすること、無給期間があることなどを念押しで伝えた。普通ならこの条件を聞いて尻込みするはずだが、中村は意外にも涼しい顔で、「大丈夫です」と答えた。




「職人の世界では見習い期間があるのは普通ですから」と、落ち着いた声で中村は言った。その言葉にAは一瞬、感心したが、同時に日本の労働文化がいまだにブラック企業体質を引きずっていることを感じさせられた。見習い期間という名目で無給が当然とされる文化が、どこかでこの国の労働者たちに染みついているのかもしれない。




その後、Aはふと高山の顔を思い浮かべた。彼はマネージャーポジションにいるにもかかわらず、採用活動にまったく力を貸してくれなかった。求人の内容も手伝わなければ、面接にも顔を出さなかった。それどころか、最初から最後まで放置していたのだ。Aはそのことに不満を覚えながらも、高山との衝突は避けたいと考えていたので、あまり強く言えなかった。




だが、中村が入社してからしばらくして、高山は突然、中村に絡みに来た。それまで無関心だった高山が、どこか得意げに中村に話しかけてきたのだ。Aはその光景を目にして、腹の中で「何を今さら」と思った。




高山は、中村に向かってこう言った。「君は工場の管理職だったんだってな。やっぱり経験者は違うな。うちでもその腕を存分に発揮してくれよ」と、まるで自分が中村を見つけてきたかのような口ぶりだった。




高山が新人に対していつものように、威圧的に背中を叩こうと手を振り上げた。その瞬間、誰もがいつものように打撃音を予想していた。しかし、その音は鳴らなかった。振り上げられた高山の手は、空中で静かに止まっていたのだ。




驚いたAが目をやると、中村が音もなく高山の手を軽く押さえていた。その動作は、あまりにも自然で、まるで長年の訓練で身につけた技術のように流れるようだった。




「失礼、手がぶつかりそうでしたので、つい…」中村は眼光鋭く、冷静にそう言った。その言葉と態度に、場の空気が一瞬で緊張した。高山は明らかに動揺していた。普段なら新人は萎縮するはずのところが、まったく動じない中村に阻まれ、彼の威圧は完全に空振りしてしまったのだ。




Aを含め、その場にいた全員が驚いていた。高山はバツが悪そうに苦笑いを浮かべると、何も言わずに去っていった。普段の威圧的な態度が消え、まるで尻尾を巻いて逃げるようだった。




中村は振り向き、にこやかに微笑んだ。「武道の心得がここで生きるとは思いませんでしたな。」その声には、一片の緊張感もなく、むしろ穏やかさすら感じられた。周りにいる人々もその場の和やかな雰囲気に、さっきまでの緊張が嘘のように緩んでいった。




Aはその瞬間、思わず考えた。中村のこの冷静な対応と武道の技術で、会社の問題児である高山を大人しくさせることができるのではないか? 高山のようなタイプは、力や威圧に屈するのではなく、冷静で確実な技術に対しては圧倒されやすい。これまで、うるさくて威圧的だった高山がもし黙ってくれるのであれば、この会社の職場環境もだいぶ過ごしやすくなるはずだ、とAは思った。




高山はしばしば他のスタッフを萎縮させ、特に新人にとっては恐怖の対象だった。誰も彼に正面から反論することができず、彼の言いなりになるしかなかった。そのため、会社内の雰囲気はどこかピリピリとしており、働きにくい環境が続いていた。




だが、中村の登場はそれを一変させるかもしれない。Aは期待と不安が交錯する感情を抱きながら、中村の姿を見つめていた。彼は決して派手な存在ではないが、その静かな存在感と冷静さが、この会社に必要な安定感をもたらしてくれる可能性があった。

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