第2話田舎娘
彼女は、自分の名前を呼ばれているのに気付き目が覚めた。
「はーい」
ベッドの中で寝ぼけながら返事をすると、起き上がり様にぐっと背伸びをする。
まだ重たい瞼を擦りながら、階段を下りて食卓に顔を出すと、彼女の父であるバルコフが茶を啜っていた。
「おはようアイラ」
「ほはよう父さん」
父の挨拶に、アイラはあくび混じりに返事をすると、キッチンで朝食の支度をしている母のケランから声が掛かる。
「アイラ、寝起きに悪いんだけど火、頼めるかしら」
「はいはーい」
アイラが、母に代わってレンガ造りの釜戸の前でしゃがみ、右手を軽く握り筒状にしてその隙間に息を吹き掛けると、拳から出た吐息が炎となり置かれた薪に火をつけた。
「相変わらず便利なものね」
「でしょ。羨ましかったらお母さんも先生に習えば? まぁ無理だろうけどね」
生意気な口調で母をからかうアイラだったが、『はいはい』と軽くあしらわれ、面白くないといった表情で食卓に向かった。
アイラが食卓につくと、二人の会話を聞いていたバルコフがアイラに話しかける。
「今日も先生のところにいくんだろ? なら、俺も一緒に先生に習おうかな」
「えー、お父さんが?」
「なんだ、父さんじゃ無理だっていいたいのか?」
「いやー、だってさ、魔術って繊細で難しいんだよ? それをがさつなお父さんが習得できるかって言ったら、ねぇ」
「そんなもん、やってみなきゃ分からないだろ」
小馬鹿にしたようなアイラの口振りに、バルコフは口を曲げる。
「あんた、馬鹿なこと言ってないでよ。あんたが居なくなったら誰が畑の世話をするのよ」
「冗談だよ冗談。あはは」
キッチンから飛んでくる声に、バルコフが誤魔化すように笑って答え、アイラはそのやり取りを心のなかで笑った。
アイラは、朝食を済ませるとパジャマを着替え、三人が先生と呼ぶ男の家へと向かった。
道の横では、丁度収穫の時期を迎えた小麦が、風に揺られている。
そんな中を鼻歌混じりに歩いていると、小麦を刈っている恰幅のいい男がアイラを呼び止めた。
「おう、おはようさん! 今日も先生のところか?」
「うん! 世界一の魔術師になるなら、日々の鍛練を怠れないからね」
「精がでるねぇ。そうだ、ちょっと待ってろ」
そう言って男は家からパンの入った籠を持ってくると、アイラに手渡した。
「先生に会うなら渡しといてくれ。日頃の礼だってな」
「分かった! きっと先生も喜ぶよ!」
先生と呼ばれる男の家は、アイラ達の住む村から少し離れた丘の上に、ポツンと建っている。
アイラは、玄関に立つと、自分の赤い髪を手クシで整えてから扉をノックした。
ノックに反応して中から出てきたのは、端正な顔つきの眼鏡を掛けた青髪の長身の男。
彼こそがアイラが先生と呼ぶ、イルゲン・リヴェットである。
「おはよう。待っていたよ」
イルゲンが、はっきりとしたそれでいて優しい声をかけると、アイラの目が輝いた。
「おはようございますイルゲン先生!」
アイラがほとんど休むことなく、毎日のようにこの家を訪ねるのは、魔術を教わるのは勿論のこと、彼に会うことも目的であるのは明白だった。
十五歳になるアイラには、村で農作業に準じ、家畜の尻を追いかけ回す同年代の男達より、魔術の知識は勿論、様々な教養を持ち合わせ、知識を糧に生活する先生の姿が一際魅力的に見えたのだ。
だが、アイラもただ世間話をするために、イルゲンのもとを訪ねている訳ではない。
彼女は、物心がついた頃からイルゲンに魔術を教わっており、村のなかでイルゲンを除いて唯一魔術の使える存在でもあった。
また、魔術を習得するよう勧めたのは、他でもないイルゲン本人である。
イルゲンは、幼い頃からアイラには魔術の才があると確信しており、彼女もまた、イルゲンの期待に応えるように魔術の腕を磨いていった。
「これ、アテムさんから。日頃のお礼だって」
アイラは、家に入ると先程預かったパンの入った籠をイルゲンに渡した。
「ありがとう。今度会ったらお礼を言っておくよ」
イルゲンは笑顔で受け取ると、その籠を机の上に置いた。
部屋には、ところ狭しと本棚が置かれ、そのどれもが本を満載している。
「先生、今日は何を教えてくれるんですか?」
「そうだね。実は、頼まれていた薬品が完成してね」
「ま、まさか」
それまで期待に満ちていたアイラの顔が徐々に歪んでいく。
それを見てイルゲンは、はにかみながらおもむろに液体の入った瓶を複数本机に並べた。
「これを町まで運んでほしいんだ」
「またですか!?」
想像していたことが確信に変わり、アイラはがっくりと肩を落とした。
「これも魔術師としては」
「重要な仕事、ですよね。分かってますって」
イルゲンに被せて、アイラが言葉の続きを話す。
イルゲンの本職は教師ではなく、薬の製造である。
作った薬品が一定数貯まると、定期的に付き合いのある店に卸しているのだが、最近はその仕事をアイラに任せるようになっていた。
アイラは、初めこそ、この仕事が魔術師として大成するために何の役に立つのかと、イルゲンに疑問をぶつけた。
だが、イルゲンから魔術師として生きていくなら、魔術師の生き方を学ぶ必要があると説明され、泣く泣く薬品運びの仕事を引き受けるようになった。
「でも、もうよくないですか? もうお店の人とも世間話が出来るくらいには関係を築きましたし、これ以上学べることなんて」
「アイラ」
と、名前を呼んで笑顔を浮かべるだけのイルゲンに、アイラは観念して瓶を受け取る。
今日一日が雑用に潰れることが確定すると、晴れやかだったアイラの気分は、一転して陰気なものになってしまった。
アイラは、鞄に瓶を詰め込み背負うと、今歩いてきたばかりの道を引き返していった。
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