嗚呼、大いなる朝よ

牧陽市

嗚呼、大いなる朝よ

 ヒュンヒュンと音を立て、電磁線形車が通り過ぎる。暗い部屋の天井に明かりが差し込み、流れていく。遅れて振動が伝わる。全く不快じゃない。むしろ心地良い。

 僕にとって…、「僕」なのだろうか。僕、わたし、俺…どれもしっくりくるし、しっくりこない。なんだか妙だ。前にもこんなことがあった気がする。

 ――どうやら例の違和感が姿を現し始めたらしい。僕(「僕」が今の僕、僕を取り巻く状況、僕の中に占める感情や記憶、思考に最も調和しているだろう。)はこの違和感を知っている。

 だからできるだけ周囲の音や匂い、それから言葉にできないほどに微妙な刺激に意識を集中させる。この違和感を僕が認識しないように。

 人の話し声がさざ波みたいに大きくなったり小さくなったり部屋にこだまする。きっと隣の彼がまたテレビをつけっぱなしにして眠ったんだろう。(今では電脳から直接ネットにアクセスするのが主流だが、ここの住人の多くは電脳化をしていない。だからテレビやラジオを使っている。)

 それから僕の義体は冷え切っていた。もしかしたら電脳の感覚野への人工神経に不具合が起きているのかもしれない。ここ数年(数年…?ここにも違和感を覚えた。僕はもっと集中する)、金も時間もなく、精神的積極性もとっくに失ってしまっているので義体のメンテナンスを行っていない。そのため時々、ネットにアクセスするとき、ノイズや歪みを感じる。だがそれにも慣れた。(人は元来、歪みや揺れを好むものだ。戦前のギターでもわざわざ電気的抵抗を加え、音色や響きを変えていたらしいし)

 遠くを飛行する哨戒機による空気の揺れ、義体の定期メンテナンスキットの配達をする小型無人航空機の音、だんだん夜が更けていくとき特有のなにか、どこか懐かしい気配、感じるはずのないこの星の至る所で駆け巡る光や電子の線......

 やがて僕の中にある自己、主体が薄れていき、この場に溶け込んでいく。違和感などなかったかのように、僕のスイッチを切り、僕は眠る。


 その時、部屋にバッハの「チェンバロ協奏曲 第1番 ニ短調 BWV.1052」がゆっくりと流れた。(部屋というより、電脳の中に、もっと正確には聴覚野に直接、曲を0と1で表したものが送られた。)

 ――僕は夜、なかなか寝付けなくなってから、数週間に一度、この曲を電脳内で再生するよう設定した。曲が再生されたら眠りに落ちるのをやめ、僕の中にくすぶっている感情や考えを特定することにしているのだ。(別にいつだって、何もかもなかったふりをして、眠りにつける。だけど均質化された一日の連続は、同じコード進行を多用する作曲家のようにつまらない、刺激のない記憶を構成し、それはやがて死をもたらす。死について深く考えたことはなかったが、生から死への流れは一部の特権階級を除いて不可逆なもので、僕は特権階級でもなんでもないので、今は避けることにしたい。)


 僕はベッドから起き上がり、服を着て、外に出る。部屋の明かりはつけなかった。


 辺りには、暗闇が、閑静さが、懐かしさが、心地よさが、つまりは夜がどっぷりと沈んでいた。月が西に出ている。月から降り注ぐ温かな光と等間隔に設置された街灯による冷たい光が夜のほんの一部を照らしていた。

 僕は歩く。僕の規則的な足音を夜が受け止める。僕という存在まで受容してくれているようで少し嬉しい。行き先は決めない。(僕はこういうとき、「どこかに行きたい」というより「どこかに行ってしまいたい」というタイプの人間なのだ。)

 僕は歩く。僕以外の人間の存在は認められなかった。(このあたりはハイパービルディングで構成された完全環境都市へのベッドタウンであり、近隣住民は皆、この時間は就寝中だ。僕だって普段は寝ている。)

 僕は歩く。歩きながら考える。ふつふつと違和感が形を変えていく。感情や言葉になっていく。僕の中の不安がはっきりとした形を持って膨らんでいく。ぼんやりとして、忘れかけていた記憶を掘り起こしていく……


 僕はある時、「僕」として、学生だった。

 僕の前には膨大すぎる可能性が横たわっていた。僕は何者かにならなくてはいけなかった。何者かになるための生活は簡単に僕を息苦しくさせた。

 暴力的なまでに人を乗せた、顔見知りの多い毎朝の市街電車、何度再生ボタンを押したかわからないプレイリスト、使い道のわからない知識の詰め込み、何度やめようとしたかわからない情調刺激増幅チップの数々、そしてそれらで構成された既視感が多くを占める日常…

 僕はよく、夜に家を抜け出して、ただ歩いていた。稚拙な逃避行は僕にとって唯一、新鮮でいつでも新しい予感を感じさせた。僕は夜に溶け出していき、僕を忘れることができた。

 ――なぜだか自動販売機でいつも買っていた安っぽい炭酸飲料が記憶野でシュワシュワと音を立てた。


 僕はある時、「俺」として、都市で働く日雇い労働者だった。

 俺は地方から職を求めてこの都市に来た。しかし、まともな経歴もないよそ者につける職など限られており、今日をどうやって食いつなぐかだけを考える日々を過ごしていた。

 誰にでもできる仕事、未来のことなど、とても考えられない稼ぎ、表面だけの人間関係、すぐに消える後悔と野心、違う俺になれるかもしれないと期待する目覚めの朝、そしてそれらの薄っぺらな一日の連続が構成する日常…

 俺には唯一の希望がいた。彼女は誰に対しても笑顔を絶やさない人だった。俺は金をため、しまいには借金をしてまで彼女を。彼女の本当の名前は知らない。彼女には感情などない。しかし彼女との時間だけが俺の中で意味のあるものだった。

 ――彼女がよく聴いていたクラシックが聴覚野で再生された。


 僕はある時、「わたし」として、都市を牛耳る巨大コーポレーションの従業員だった。

 とうの昔に忘れてしまった理想や志、誰もが議題を忘れ自己保身に走る会議、徹底的な利益追求のために放置する諸問題、叫びたくなる衝動を必死に押し殺して乗り込む昇降機、見てみぬふりをすることが不文律となっている不正や癒着の数々、そしてそれらで構成された企業のパーツとして生きる日常…

 わたしは一度、企業の新事業としてセクサロイドの開発に携わった。そのときには既にAIを超える存在として、人間の完全なコピーである人工生命(Artificial Life)の開発は成功していた。倫理的に問題があるとして規制されていたが、この技術を使用し、規制を回避するセクサロイドの開発が始まった。人工生命は人間を情報とそれに対する感情によって作られる記憶によって構成されているものだという考えがベースとなって開発された。だから根本的な情報とそれに付随する感情を欠如させることで、電脳を作り、それを義体に取り付けることで開発は成功した。いつものようにの危険性や倫理的な問題から目を背けて…

 あれからしばらくして都市を歩いていたとき、ショーウィンドウの中にセクサロイドを見つけた。彼女はこちらに一瞬、視線を向けた。どこか人間臭かった。

 彼女たちは本当に人間とは違う存在なのだろうか?彼女たちに精神や心と呼ばれるものは本当にないと言い切れるのだろうか?

 ――彼女のあの一連の動作がスローモーションとなって記憶野で何度も何度も再生された。


 僕はある時、「僕」として、夜に歩き、考えていた。

 かすかな朝の気配を連れて風が吹く。野鳥たちの目覚めの鳴き声が聞こえる。朝はまだ来ない。まだ夜は僕を受け止めている。

 気がつけば僕は眼前にハイパービル郡を望む町外れの丘にまで来ていた。近くのベンチに腰掛ける。


 僕は考える。

 僕は複数の記憶を持っている。そしてそれらは決して共存しない。

 僕は考える。

 電脳は常にネットにアクセスしている。ネットを記憶の外部保管装置として使うユーザーもいる。何らかの手違いで僕の電脳にそれらの記憶がダウンロードされたのかもしれない。

 僕は考える。

 企業で人工生命の生産が行われている。彼らは電脳の記憶野のリソースを使い切ったあと、また新しい記憶野と義体に取り替えられる。僕は人工生命なのかもしれない。

 僕は考える。

 ネットでは他者の電脳にアクセスして記憶を付け加えたり、消去したりするユーザーもいる。僕も被害を受けたのかもしれない。


 僕の中に猜疑心と不安が充満していく。僕の違和感が上に挙げたどの場合の可能性をも意味する。記憶だけが個人を個人たり得させる。僕の中に複数の記憶がある以上、僕は確固たる自己を持てない。人間は必ず一貫した記憶を持っている。だからこそ、そこに同一性を見出し、それが自己の存在肯定につながる。


 しかし僕には...?

 僕はこれからの出来事を現実だと信じられるだろうか?

 僕という存在は本当に存在するのだろうか?


 















 その時、僕は眩しい光に包まれた。

 地球から1億4960万kmも離れていて、46億年前から今まで一日も絶えることなく地球に朝をもたらし続けた、眼前のハイパービル群よりも、僕の持つどんな記憶よりも遥かに絶対的で、神秘的で、極大で、偉大で、圧倒的な太陽だった。


 そのはしばらく朝日を眺めたあと少しの諦めと大きな安心感とともに帰路についた。

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