第15話 没入型写真展ですから

 その夢のタイトルは〝イマーシブフォトエキシビション展・バーチャル会場〟といった。分かりやすいといえば分かりやすいけど、いまいちピンと来ないと言えばピンと来ない。


 要するに、屋外写真展というコンセプトの夢のようだった。見渡すかぎりの緑の丘陵。白いタイルが敷き詰められた清潔感のある親水広場。そのあちこちにガラスのようなパネルがさながらモノリスのように立てられ、たくさんの写真を大画面で展示している。


「夢の中の写真展を取材?」


 あたしがそう聞くと、車椅子ちゃんはこくりとうなづく。


(ある写真家さんの初個展だそうです)


「ふーん」


(今日の取材は、個展会場の見学取材と個展の主催者さんへのインタビューです。現実世界で実際に写真家として活動するプロのカメラマンですが、今般VRSNSに興味を持ち、自分の作った夢に自分の写真を展示することを思いついたそうです。せっかくのことなので周知とレビューを、と通信社に直々の取材依頼でした)


 車椅子ちゃんが長い文章を速記して、経緯を教えてくれる。


 なるほど。夢も写真も全て一人のユーザーによるものなのか。道理で手が込んでいる。


 待ち合わせ相手というのも、その写真家さんというわけだ。


(まだこちらの夢へ来ている様子はありませんが)


「そうだね。じゃあ、待ってる間に先にちょっと写真展を見ておこうか」


 順路に従って、最初の写真の前へ。


「ねえ、今、この写真何色に見えてる?」


(#0000FF)


「それはまた……純粋な青だね」


(はい、本物の空の青です)


 個展のスタートを彩る最初の写真は、縦撮りの現実世界の空。


 どうやら青空、らしい。


 ところで、あたしは色が見えない。本当の空の色を知らない。


 生まれつきのものだけど、今は色覚補助のレンズも発達しているから、色を理解してないわけではないと思う。ただそれは理解であって、経験ではない。


 四次元を表す図解を見せられただけでは、四次元を経験したとは言えないのと同じように。


 やはりあたしは、それを知っているとは言えないのだ。


「本物の、青空」


(やっぱり、まだ知りたいんですか)


「そりゃね。とはいえ、今は夢の中に現実のカラー写真を飾ったりするんだね」


(イマーシブフォトエキシビション。没入型写真展ですから)


 えっへん、と人差し指を立てる車椅子ちゃん。


 そのまま彼女は、もっと近くで見てご覧、と言わんばかりに身振りであたしを促した。


 素直に一歩進んで、青空というその写真に眉間を近づける。


 広角レンズを使って煽りで空を広く撮っている。


 現実世界の空なのだろう。


 送電塔が並ぶように屹立していて、間を架ける電線には鳥の群れが停まっている。


 黒い鳥の群れ。たぶん、黒。


 この際、黒かどうかは正直どうでもよくて、あたしが言いたいのはつまり、着彩された鳥の群れに一羽、真っ白な鳥がいたということだ。


「まるで逆スイミーみたいな」


(なんです?)


 さすがのあたしでも白はわかると思いたい。


「一応聞くけど、真ん中の鳥は」


(#FFFAFA)


「まあ、間違ってはないか……」


(白って200色)


「そういうのいいから、本当に」


 車椅子ちゃんの筆談を適当にあしらいつつ、写真に手を伸ばす。


 現実の写真展ならまだしも、ここの写真は板メッシュにシェーダーでテクスチャを貼り付けただけの3Dモデルだ。触れることを咎める人はいない。


 この世界は、よっぽどのことがない限り壊れないのだから。


 永遠に残る風景ではないけれど、永遠に変わらないことも担保された、矛盾された世界だ。


 あたしは吸い込まれるように、雪色だという一羽の鳥に手を伸ばしていった。


 あたしの分身アバターの指先が、白い小鳥に、触れ、る――。


 ――バサバサバサッ! カシャ!


「ひゃぅわ!」


 指先が写真に触れた途端、群れるように停まっていた黒い小鳥たちが一斉に飛び立ち、写真の外に飛び出してきた。毛羽をまき散らしながら、写真の中にいた黒い小鳥たちはあたしたちのいる親水広場の夢を飛び回り、やがてこの夢の空の彼方に飛び去っていってしまった。


「なにこれ」


(イマーシブです)


「そゆことね」


 なんとも、不思議な写真体験だ。


 黒い小鳥が飛び去ったこの夢の空は、目の前にある写真のように澄んで、雲が流れていく。


「本物の青空、ねえ」


 そうつぶやきつつも、若干、そう若干何かが引っかかる。


 ……バサバサバサッ、カシャ?


 さっきそう聞こえたよな?


 カシャって、なんだ? いやなんの音だ?


「まさか、今のあたしを撮った?」


 恐る恐る車椅子ちゃんの様子に目を向けると、セーラー服のスカートから伸びた病的に華奢なお膝の上に、御大層な一眼レフカメラがちょこたんと乗っかっていた。


 あたしは笑顔で「見して」と友好的に頼んだ。


(なんのことやら)


「よこせ」


(ひえ)


 車椅子ちゃんは涙目で一眼レフカメラを差し出した。


 躊躇なく「没収」と奪い取ると、あっ、車椅子ちゃんが泣き出してしまった。


 彼女のちっちゃな手には不釣り合いな、フルサイズの黒い筐体。オーソドックスな標準ズームレンズが嵌っている。マニュアルモードでf値は5.6、シャッター速度は200。


「これ、あんたのアバターに仕込んでるの?」


 車椅子ちゃんが、小指で涙を拭い取りながらうなづく。アバターギミックだとしたら、だいぶ凝ったつくりのカメラだ。どこで売ってるんだろう。


 試しに少し操作してみる。ISO感度も変えられそうだ。撮った写真も十数枚程度なら遡れそうだが、さすがに削除はできないか。データは車椅子ちゃんの万華鏡かパソコンの、ローカルストレージに入ってるんだろうからなあ。手出し不能な領域だ。


 ファインダーを除き、車椅子ちゃんに向けて「はいチーズ」とシャッターを切る。バリアングルモニタで写真を確認すると、車椅子ちゃんはにへらぁ……みたいなヘタクソすぎる笑顔を浮かべ、おずおずとしまらないピースサインを掲げていた。


「カラー撮りだよね?」


(一応、モノクロでも撮れますケド。四、五十のフィルタ効果もお手のものです)


「ふーん、そりゃすごい」


 一説によると、日本で写真に色が付いたのは1941年6月とされている。現在のコニカミノルタから十八枚撮り十円のカラーフィルム「さくら天然色フィルム」がカラープリント用品とともに発売され、約二十万本が生産されたとか。国外に目を向けても決して日本が遅すぎるということもなく、それはおおよそのところ世界的な潮流の中での登場だった。


 さしずめ、世界に色が付いた瞬間というやつだ。


 ところで、往時はカラーのことを天然色、フルカラーのことを総天然色と呼んだ。


 本来の自然の色。


 それはモノクロが主流だった時代に、大きな価値基準となった。


 実際、1970年代に入って誰でも写真屋でカラーフィルムを現像できるようになるまで、カラー写真が主流になることはなく、あくまでモノクロ写真の傍流であり続けたのだから。色というのはそれだけ贅沢品だったのだ。それはやがて写真技術がデジタルに移り変わり、総天然色という言葉が一六七七万色という表現にとって変わられた現代でも変わらない。


 改めて、この夢の中の展示された写真にも目をやる。


 自然界に存在するすべての色を表現できる時代になっても、写真家の飽くなき表現は留まることを知らないというところだろうか。


 あたしは「写真にもまだまだ進化の余地が残ってるんだねえ」と呟いた。


「写真の進化は、まさに色の進化と言えますからね」


「ぅわ!」


 急に壮年の男性の声が聞こえて、あたしは上擦った悲鳴をあげた。

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