第14話 車椅子ちゃんって、マゾ?

 百数十メガバイトぶんの夢のダウンロードが終わると、万華鏡の暗転を抜け、あたしは車椅子ちゃんのいる夢へと降り立った。


 ちゃぷ。


 万華鏡のスピーカーからまず聞こえてきたのは、そんな控えめな水音だった。


「うわ」


 くるぶしくらいの高さまで、水が張っている。


 不純物ひとつないくらい透き通っていて、浅い水底はタイル張り。


「池……?」


 と表現するのが、たぶん一番近いのだと思う。あるいは水浴びもできる噴水、みたいな。


 親水公園というやつだろうか。


 よく夏場のニュース番組で「なになに市で最高気温」とかのテロップとともに、ちびっ子たちが水遊びする姿が撮られているような。


 そういう感じの水辺の広場のド真ん中に、あたしは立っていた。


「リスポーン地点の指定、雑じゃんね」


 夢に入った人が最初に立つ場所として設定されている地点のことだ。


 さて、探し人はすぐに見つかった。


 探す必要すらなかった。


 なぜならセーラー服の女の子が、水没した車椅子にひどく悲しそうな表情で座っていたから。


 それはもう、悲しそうな表情で。


「いや、仮想現実じゃん。水没とか関係ないじゃん」


 思わず声に出して突っ込んでしまった。


 いやまあ、確かに半分水没した車椅子は視覚的にインパクトはあるけども。


 別に夢の中なんだから問題ないじゃん。


 なんでそんな世界の終わりみたいな顔してんの。


 じゃぶじゃぶと水を掻き分けるようにして車椅子に座った女の子の前まで歩いていく。


「ねえ、車椅子ちゃん」


 ぴくり、と車椅子ちゃんが身じろぎをした。


 長い前髪の向こう側で、眠たげな瞳があたしのことを見る。


 そのまま彼女は小さな唇を開いて――


「カシュッ」


「だーかーらー! 缶ビールの開封音だけマイクに乗せるのやめろっつったでしょうが!」


 もうなんかすべてが最悪だった。


 車椅子ちゃんは水没したまま、お酒をあおるような動作を何回か繰り返した。夢の中では何も手にしていないけど、現実側で実際にお酒を飲んでいるのは目にも明らかだった。


「しゅわしゅわ、ごくり」


「無視すんな!」


 もうこの時点で、記事の内容でくよくよしてた自分が馬鹿みたいに思えてくる。


 彼女はお酒を置くような動作のあと、制服のポケットから高級そうな万年筆を取り出して、


(ハイボールです)


 と空中にインクを走らせた。空間をキャンバスにするかのように文字が伸びていく。


 そういえば、あんたはそうやって筆談をする〝無言勢〟だったね。


「お酒の種類とかどうでもいいから、本当に」


(久しぶりですね、お姉さん)


 車椅子ちゃんは空中でそう筆談すると、万年筆をいたずらっぽく唇に近づけて笑った。


 少し嬉しそうに口の端を歪ませて。


(少しやつれました?)


「誰かさんが書いてくれた記事のせいでね」


 おかげさまで、あたしがこの数日受け続けてきた迫害の記憶が蘇ってくる。そう、始まりは車椅子ちゃんとの出会いから一週間後。人の多い夢によくいる友達から「これってちる子のこと?」というメッセージ付きで不眠通信の壁新聞を写した写真が送られてきたことだった。


 実名であたしのことを紹介してくれやがった不眠通信は、ウェブサイト上で見られるだけじゃなくて、主要な人が集まる夢にも壁新聞の形で掲出されていることが多い。VRSNS初心者を案内するための夢とか、日本語話者同士がマッチングする会話スペース的な夢とか、そういう人が集まる夢にはたいてい今流行りの新着3Dモデルの広告が貼られたりしていて、いちおう大手VRSNSメディアらしい不眠通信もそれらに混じって並んでいるという道理だ。


 で、なんか魔眼を宿してコンドームのバケモンに吸い込まれていくヤバい女として自分の写真が拡散されたあたしの気持ちを、マジで想像してみてほしいわけであって。


 しかし当の執筆者である車椅子ちゃんは、涼しい顔をして話題を流すのであった。


(ああ、それでお姉さんに聞きたいことあったんですけど)


「話をそらすな」


(あのあと、人が多い夢とか行きましたか?)


「あのあとって?」


(マテリアルエラーの屋上に行ってから、今日までに)


「行ってないし、誰にも会ってすらないよ。あんたんとこの編集長さんだけ」


(本当の本当に?)


「行ってないよ。てかどこ行ってもあんたの書いたうんちみたいな壁新聞が貼ってあんだよ」


(うんち、そうですか)


「待って。なんで嬉しそうな顔してんの」


 ねえ、おかしいでしょ。


 別に擁護するつもりはないけど、あんたの文章をあたしはうんちって言ったんだぞ。


「車椅子ちゃんって、マゾ?」


(そう見えますか)


「書き直してよ。不眠通信のえむぴいさん?」


(む)


 車椅子ちゃんは露骨に嫌そうに目を背けた。


「えむぴいさんってば」


(うーん)


 めちゃめちゃ渋るじゃん。


 もしかしなくても、ライターって〝訂正〟って言葉に弱かったりするのかね。


 間違いくらい認めてくれないと困るんだけどな。


(あの、ひとついいですか)と車椅子ちゃんが発言の許可を求める。


「はいどうぞ」


(実はこれから取材があってぇ、待ち合わせ中でぇ……)


「え、すご」


(そうでしょうそうでしょう?)


 すごいなこいつ。あんな記事を書き散らかしておいて、まだ書き足りないんだ。


 さて、聞きたいことは、いっぱいあった。


 ねえ、どうしてあの踊り場にあんたはいたの? とか。


 あんたがライターだったことはわかった。


 でも、そもそもどうしてあの夢を見つけたのか、とか。


 どうしてあたしに素性を伏せたのか、とか。


 結局、このよくわからない雄弁な無言の女の子について知っていることは、ほとんどないのだ。


 とはいえ、それは今聞くことでもないというのも、確かにひとつの言い分なわけで。


(あの、だから取材終わるまで記事の件は保留ってことで)


 おずおずと愛想笑いを浮かべる車椅子ちゃん。


 この期に及んでうやむやにできそう、とかいう魂胆が見え透けていて本当に往生際が悪い。


「いいけど、逃げられると思わないで」


(ひん)


「勘違いしないでよね。あんたのペンの被害者をこれ以上増やすわけにはいかないでしょ」


 話が妙な方向に転がっているな、と思った。


 思ったが、今さら動き出した口をつぐむわけにもいかず。


 吐き出しかけた言葉を飲み込むわけにもいかず。


 力強く、


「あたしもあんたの取材についてくから」


 なんて宣言しちゃうのだ。


 思えばこの時点で、もうとっくに車椅子ちゃんの話術に絡め取られていたのかもしれない。

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