第2話 3528時間24分35秒ですね

 その広大な〝夢〟を偶然見つけたのは、一年ほど前のことだった。


 検索をしても現れない、非公開の夢。その夢の制作者も、夢の名前も、夢の概要も、夢のデータ容量すら、すべて伏せ字。技術的にそんなことが可能なのかどうかすらわからない。


 誰が、なんのために作った夢なのか。ただただ広大で、同じ景色は二度とない。夢を構成するメッシュもテクスチャも、ひとつひとつが異なっていて、それでいて雑多じゃない。生成AIが作った夢なら、もっと無作為で、無秩序な夢になる。数万の夢を歩いたあたしの目は誤魔化せない。この夢には統一性があって、とても人為的な匂いが残されているのだ。


 たどり着くのは容易じゃなかった。


 いくつもの〝夢〟を中継して、ポータルを出たり入ったり。


 それぞれの夢自体は大したことがないけれど、数多の夢がネットワークのように絡まり合っていて、そのネットワークの最深部にこの二〇〇〇年代の校舎が存在しているようなのだ。


 それまでに、多くの夢を見てきた。精巧なただの町並みならまだマシで、洗濯機の中一つ一つにエロ本屋が広がってるコインランドリーとか、おもちゃのアヒルの体表を走る山手線とか、一つ一つの夢の規模感もデカすぎるのだ。それらを探索したうえで、夢同士のつながりまで把握しなくてはならない。はっきり言って病的だ。そして、この校舎も。


 階段を登り切って、校舎の三階についた。防火シャッターが閉まってるけど階段自体はまだ上がありそうだ。三階の廊下自体も長い。この夢、縦にも横にも広すぎるんだ。


「どこまで続いてるんだと思う?」


 あたしがそう問うと、車椅子の女子中学生はふるふると首を横に振った。


「そ。あたしもわからないよ。そもそもこの夢に来れたのだって一年ぶり。去年一度来たことがあったんだけど、そのときは間違えて夢から醒めちゃってね。最初からやりなおし。戻ってくるのは大変だったよ。てか、本当にここが最後の夢でいいの」


 というよりは、そのときはただ単に万華鏡HMDの充電を忘れていただけなのだけれど。


 どうやら、手を離しても車椅子は前に進み続けるらしい。車椅子ちゃんはあたしの歩幅で車椅子をきゅるきゅると駆りながらも、万年筆で空中に文字を書き続けている。


(わかりません。夢の制作者を見つける以外で、それを確かめる方法があるのかすら)


 それこそ、天文学的な確率に過ぎない。


 そもそも作者が誰かすらわからないのに、偶然同じ夢で行き交うなんて不可能だ。


 もしかしたらこの夢を完成させたあと、夢を見ること自体に飽きているやもしれないのに。


「なんだ。あんた、この夢に詳しそうだったのに」


(ワタシはずっと、この校舎で立ち往生していただけですから……)


「ずっとって、どのくらい」


 すっすっと、車椅子ちゃんは万年筆で中空に文字を書く。


(3528時間24分35秒ですね)


「数えてるの」


(最初の夢にログインしてからの経過時間です)


「万華鏡の電源をつけっぱなしで夢を探索してるってわけ」


(もしうっかり万華鏡の電源を落としたら、二度とこの夢は見られない気がして)


「風呂とか入ってなさそう」


(君消す)


「こわいって」


 学校の三階の廊下は、文字通り消失点の彼方まで続いていた。


 つまりは、終わりが見えない。


 手近な教室の表札は「1年5組」とある。


(この調子で進んでいったら、1年56億7000万組とかありそうですね、教室)


「急に仏教かなんかの話になった?」


(ちなみに2階は2年1恒河沙組くらいはありましたね、あれは)


「小学生の語彙じゃないんだからさ」


 その口ぶり、絶対最後まで数えて回ってないでしょ。


(1階の3年1984組は面白かったですね)


「不登校の生徒に虐殺されて血の池になった3年200組あたりで萎えて二階に進んだけど」


(もったいない。1984組はその二ヶ月後を描く正統続編ですよ)


「最悪」


 それから車椅子ちゃんはしばしの沈黙を挟むと、比較的長めの文章を空中に綴り始めた。この夢は広大で、あたしにとって時間は貴重でもなんでもなく寿命の終わりまでもて余すものという存在だったから、あたしは黙って最後まで書き終えるのを待った。


(……この夢の作者は、無数の夢を創り、ネットワークのようにつなげました。広大で、全部違う風景で、壁についた落書きや落とし物、窓枠に積もったホコリですら、作者の意図が込められたかのように異なっている。だけど、作り自体はとても単純です。悪く言うと古典的。四角いポリゴンがあって、高画質なテクスチャを貼り付けてるだけ。凝ったパーティクルやアニメーションといった豪奢な演出もなければ、複雑なプログラムを組んだ仕掛けもない)


 車椅子ちゃんがヘッタクソな絵で立方体を描く。これなに? って問うと、教室です、と返ってくる。とてもそうは見えない。じゃ、百歩譲ってこれが教室の図解なのだとして、この立方体の中に描かれている夥しい数のカニは……このカニの絵はなんだ?


(生徒の絵以外にありますか?)


「あたし、まだなんも言ってないんだけどな」


(でも今ヘタクソって思った)


「思ってないよ。かわいいよね、カニの絵」


(生徒の絵です。黒いカニなんてそんなにいないでしょうに)


 思った以上に、車椅子ちゃんは饒舌だ。いや、喋らないんだけど、言葉が湯水のように湧いてくる。こんなにおしゃべりな筆談を、私は生まれてこの方見たことがなかった。


 いつの間にか、車椅子ちゃんの周囲は無数の筆跡で覆われていた。空中に浮かぶ文字は車椅子を座標軸にしているようで、車椅子の移動に合わせてあたしたちの歩みに追求してくる。


(これだけ入り組んだ夢なのに、技術的に特別なことはほとんど何もしてません。誰にでも真似できるような簡単な夢の作り方で、誰にも真似できないくらい病的な物量の夢を作り込んでいます。複雑な構造の夢を作る技術がないとか、たぶんそういうことでもないと思います)


「わざとそうしてるってこと? なんのために?」


 車椅子ちゃんは万年筆のペン先を持ち上げると、何を書こうか少し逡巡した様子を見せ、これまでに数度見せてくれたあの困ったような笑みをまた浮かべた。そしてそのまま何も書かず、万年筆にキャップをした。彼女が大事そうに万年筆を胸ポケットにしまうと、これまでに書き連ねてきたすべての筆談の跡が、空中に溶けるようにして掻き消えていった。


 それにしても、不思議な子だ。どんな姿だって選べるこの世界で、不自由な車椅子を使う事自体がまずわからない。現実の身体に依拠しないこの自由な夢の中で、この子はあえて不自由を選んでいる。そんなあたしの疑問を知ってか知らずか、車椅子ちゃんは〝1年24組〟の表札が掲げられた教室の前で立ち止まった。


 どうやらこの教室が気になったらしい。確かによく見ると、この教室だけ扉が半開きだ。まるでこの教室だけは他の教室とは違う、と誘っているかのよう。車椅子ちゃんはあたしの袖口をくいっと掴んでから、ぴょこぴょこと教室の中へと入っていった。


 だけど、いったい中で何を見たのだろうか。ぎゅいーん! とタイヤを鳴らしながら器用に車椅子でバックステップ。あわてて廊下に戻ってきた。


 何事! と戸惑うあたしの前で、彼女は興奮した面持ちで万年筆を取り出すと――。


(使用済みコンドーム落ちてたwww)


 ……まあ、見かけ通り本当に女子中学生ってことではないんだろうな。


 夢から醒めたら、この人も現実社会で生きる誰かさんだ。


 今夜は少しだけ夜ふかしして、朝になったら眠いけどなんとかお布団から抜け出して。


 寝ぼけ眼で登校する高校生かもしれない。


 惰眠をむさぼって講義をサボる大学生かもしれない。


 もしかすると、共働きで在宅勤務の傍ら子どもの送迎までこなす子育て世代かもしれない。


 実は、職場の部下にセクハラして回るクソ親父かもしれない。


 考えても詮無い。


 夢から醒めた後のことを想像したって得るものはない。


 車椅子ちゃんはニマニマと笑いながら、あたしの袖をくいくい引っ張っている。


 たかが下ネタでなんでこんなに目を輝かせてるんだろう、こいつ。


 あたしはあきれつつも、車椅子ちゃんと一緒に〝1年24組〟の教室へ足を踏み入れた。


 まあその、仮に。そう、仮にだ。


 使用済みコンドームが落ちていたなら、それは必ず確かめる必要がある。

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