雨の後には

海へ行こうと思ったのはほんの思いつきだった。兄がお古の50㏄を譲ってくれたのは、亜希が自動車免許を取ってすぐのことだった。「お祝いだ」と譲られたバイクだが、実のところ新車に乗り換えた兄のお古を押し付けられたようなものだった。しかしそのバイクは見た目はボロなりによく走り、亜希は気が向けばあちらこちらへとよく出かけるようになっていた。免許を取った時は自動車でなくバイクによく乗ることになるとは思ってはいなかった。

それでも海までは今まで行ったことは無かった。理由は単純に遠かったからだ。亜希の住む町は内陸に位置し、海まではおおよそ70kmほどの距離があった。彼女は今までそこまでの距離を走ったことは無かった。兄に聞いてみると片道で3~4時間ほどかかるんじゃないかということだった。

スマホの地図でルートを検索する。距離は67km。自動車で行けば高速を使って1時間程度という時間が表示されるその距離に、亜希は不安と同時にわくわくとした気持ちが湧き上がってくるのを感じた。行ったことのない場所、走ったことのない道、70km(67kmだけど)という未経験の距離。

(これは冒険だ)

目的地の海自体には何度か親に連れて行ってもらったことがある。子供のころから何度か遊びに行った海水浴場だ。あの時はどのくらい時間がかかったのだろう。

ともかく。次の週末には海へ行こう。

亜希はそう決めて、その日は地図のルートを何度も確認した。


* * *


土曜日。

亜希はいつもより早起きをして出かける支度をする。

母親がお弁当を作ってくれていた。「ありがとう」と伝えてリュックにしまい込むと、母親は

「気を付けなさいね」

といつも通りに送り出してくれた。

外は晴天。初秋に差し掛かった朝の陽ざしが心地よくまぶしい。

いつも通りにバイクの電装チェックをしてエンジンを始動する。ガソリンは前日のうちに満タンまで給油しておいた。

どるん、と重い音を響かせてエンジンが起動する。続いてトトトトと比較的軽い駆動音。テンションが上がる。

「出発!」

掛け声とともに右手のアクセルをひねる。古いバイクは今日も好調だ。

目的地の海水浴場までは基本的に南へまっすぐ。とは言え山越えがいくつかあり注意が必要だった。見知った道をしばらく走り、隣町へ入る。ここまでは何度も走った、いわゆる「慣れた道」だ。しかし、そのまま案内に従って走っていくうちに景色は一転して自然豊かな山道へと入っていく。地形に沿って敷かれた道路は右に左にと大きくカーブし、更には後ろから追い抜いていく自動車の意外な距離の近さにひやりとする。

(……ちょっと、怖いかも)

道のりは遠い。それに、以前から何度も経験していたことではあるが、バイクから見た自動車は何倍も大きく、怖く思える。

それでも、亜希の心はこの「冒険」に浮き立っていた。知らず、鼻歌も飛び出してくる。

知らない道と知らない景色を走っているという非日常の感覚。亜希にとってこれは間違いなく「冒険」だった。

少しテンションが上がっていたせいもあるだろう。最初の休憩は2時間ほど走ってからになった。ずっと同じ姿勢なのでぐっと体を伸ばして筋肉をほぐす。心なしか腰が少し痛い。休憩に立ち寄った道の駅には他にも数台のバイクが止められている。中には亜希と同じく原付の姿もちらほらとあった。他府県ナンバーのものもある。

(あのバイクたちはどこへ行くのかなぁ)

売店で買ったパックジュースをすすりながらそんなことを考える。きっと驚くほど遠くへと行くバイクもあるのだろう。それぞれに冒険が詰まっているように思えた。

しばらく休憩して山間の道の駅を後にする。予定通りに進んでいるならうまくいってあと2時間頑張れば目的地に着くはずだ。

ひたすら山道、時々田園風景や都市部を通り抜け、バイクは軽快に走っていく。少し早めに二回目の休憩を取り、また山道へと入っていく。その頃には周囲に他の車やバイクの姿もなく、亜希は一人でマイペースに山道を走っていく。ヘルメットのバイザーを抜けていく風が頬に心地いい。山には巨大な風力発電の風車が何体もそびえたっている。その足元を通り抜けると、風車のプロペラの影が亜希の姿を通り抜けていった。その光景が面白くて、自然と亜希は笑みを浮かべていた。楽しい!楽しくて仕方ない!

風向きが変わったのは、それから少し経ってからだった。山の向こうにちらちらと海が見え始める。

「海だ!!」

亜希は思わず声を上げてはしゃぐ。同時に。ひゅう、と重く湿った風が吹いたのを感じた。空を見上げると進行方向——まさに目的地の方向に黒く重たい雲が垂れ込めているのが見える。

「噓でしょ、晴れるって言ってたじゃない!!」

天気予報に毒づいたが、かといって天気が変わるわけもなく。雲の動きが速い。あっという間にあたり一面が雨雲に覆われ、夕方のように暗くなる。

——ぽつり。

腕に雨粒を感じた直後。

ザアアと音を立てて雨が降り出した。——正確には、雨柱の中に亜希が突っ込んでいった形になるだろう。慌ててどこか雨宿りできるところはないかと視線をめぐらすが、山道では雨をしのげるところの一つもなく。

「ああもう、最悪……!」

低い声で嘆いてそのまま走り続ける。トトトトト……という駆動音も心なしかしょげて聞こえるような気がする。雨は猛烈な勢いで降り注ぎ、亜希はあっという間に全身雨に侵食されてしまった。先ほどまで心地よかった初秋の風が、冷えとなって襲い掛かってくる。

「うう、寒……」

(やっぱり70kmは無謀だったかなぁ)

そんな後悔も押し寄せてくる中、バイクを走らせる。ボロのバイクは雨の中でも健気に走ってくれている。足元にほんのり感じるエンジンの暖かさをありがたく感じながらしばらく行くと、山道の終わりが見えた。赤信号で一度止まりその隙にグローブを絞るとたっぷりと水が滴っていった。もう一度グローブを着けなおすと湿った感触に更にテンションが下がる。雨は最初の勢いこそ無いものの、しとしとと降り続いている。

「嫌がらせかな?」

空に向かって一言愚痴ってみた。

走り始めると、雨と風はあっという間に亜希の体温を奪い去っていき、寒さに意識が奪われてしまうような気持になる。

とはいえ、目的地まではあと少しのはずだ。亜希は気を取り直して雨の中を走る。山道を降り、市街地を抜けていく。

そうしてしばらく走って——。

ざあん、ざあん……と波の音が聞こえてきた。

道順を示す看板に従って道を曲がると視界が一気に開け、そこには。

「着いた……」

いつの間にか雨は止み、海には厚く垂れこめた雲の隙間から太陽の光が差し込んでいるのが見える。

「着いた!」

繰り返した声には喜色が浮かんでいる。

駐車場にバイクを止め、砂浜へと降りる。潮の香りが嗅覚をくすぐり、幼い頃の感覚が呼び起こされる。

太陽の光は海へ優しく降り注ぎ、ぽつりぽつりとその青を浮かび上がらせている。幻想的な風景だった。

しばらくの間、引き込まれるようにその景色をただじっと眺めていた。雲はやがて北へと流れ、海は先ほどまでの荒天を忘れたように静かに波をたたえている。

「海だ。……ほんとに来れた」

ふと。亜希は雲の流れを追うように走ってきた方へ振り返った。

「来れたんだ」

口元には勝ち誇った笑みを浮かべて。

(どうだ雨。私の勝ち!)

何に勝ったのかはよくわからないけれど、そんな気分で振り返った先には。

——見事なまでにくっきりとした、二重の虹。

先ほどまでの雨が嘘のような、暗い雲を背景にカラフルな虹が架かっている。

亜希はしばらく言葉もなく空を見つめていたが、やがて。

「あー、……うん、負けたわ」

脱力してそうつぶやくと、濡れた上着を思い切り絞ったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る