第7話 答え

「親からは再三にわたって家業を継ぐよう言われました。それは毎日のように。でも、その気になることはありませんでした。確かに家業を継げば安泰でしょう。どんな暮らしになるかは想像する必要もありません。それまでの毎日が続くだけなのですからね」

 秋吉はクスッと笑って水を飲んだ。

「それまでと同じ――なにも変わらない――そんなことのためだけにあった人生――」

 静かな眼差しだが、どこか悲しげでもあった。

「友人たちは苦労するはずです。彼らからすれば、家業を素直に継ごうとしない私は馬鹿みたいなものでしょう。格好を付けていると思った者もいたかも知れません。でも、自分はこの家に生まれただけで後はもう値打ちなんて無いんだな――みたいに思ったら、後戻りは出来ませんでした。大学を辞め、家を出たんです」

「予想外のヘビーさだ」

「そうでしょうか?思うんですけど、得る苦労に比べれば捨て去ることなんて実に簡単なことじゃないでしょうか?若輩の私が言うのも何ですが、得る苦労を必死にしている友人たちの当たり前な人生って、私から見ると本当に得がたいものじゃ無いかなって思えたんです。何も美談にしたいのじゃあ無く」

「それで、ご実家とは?」

「もう大変でした。何処に身を置いても嫌がらせです。するとその勤め先をクビになって――の繰り返しで」

 楽しそうに笑う秋吉の眼差しの輝きが、戸倉は初めて《強さ》から生まれていることに気づいた。

「まだまだお酒の味は分かりませんでしたが、ほんの短い間だけお酒に逃げていた時期があったんです。そのとき、バーテンダーさんが私に言った言葉が忘れられません。《酒が可哀想だ》っていう、その一言が」

 戸倉は自分のグラスを見た。

「その場でバーテンダーさんに弟子入りを願い出ました。まあ、見事に断られましたけど、その際に詩織ママを紹介していただいたんです。それがほぼ一年前」

「ここにもその……嫌がらせが?」

「ええ、ありました。あったんですが、詩織ママが私に言ったんです。絶対に守るからねって。だから、父親を電話に出しなさいって。それはもう凄い剣幕でした」

 肩を揺らして秋吉は笑った。

「何分間くらいでしたか、ママと父は言い合っていたんですけど、そのうちママが言ったんです。子は親の所有物じゃありません。生きて呼吸しながら、人からなにかを学んで育っていく別の生き物なんです。子供が小さなうちはかわいがり、食べさせることは出来ても、大人になっていく子をがんじがらめには出来ません。もし縛っても、心は自由に飛んで行きます。だったら、祝いませんか?見事に飛べるようになり、飛ぶ空を自分で決めて飛んで行く子を祝って見送りませんか?」

 黙り、微笑み、そして言った。

「父はなにも言わなかったそうです」

 戸倉は、判った気がした。

「その話を、もしかして」

「はい、興味を持たれたみたいで、いつだったか河西先生にも話したことがあります。よく覚えていますよ。先生は黙って聞きながら、目を細めて微笑んでらっしゃいました」

 豊かな時間が過ぎていく。戸倉はそう感じ、立つのが惜しくなった。それでも、仕事をしなくてはならない。得た結論を依頼者に伝えなくてはならないのだ。

「もしも――もしもだけどね、秋吉君。もしもここにその……河西先生の――」

 秋吉は微笑んでいた。

「それで何かのお役に立つのであれば、私は構いません」

 戸倉は料金を払うと店の外に出た。送りに出た詩織ママに深く頭を下げた。

「とても参考になりました」

「秋吉君と楽しそうでしたね。まるで河西先生がいらしていたみたいで」

 戸倉はもう一度頭を下げ、エレベーターに乗り込んだ。

 人は、確かに自分一人でも人だ。だが、どんな縁を持つか。どんな人と添うかでその成長は大きく変わる。

「人とは添うてみよ――か」

 すっかり夜の帳が下りている。何処か饐えた酒の香りのする街だが、そこにも深い生き様がある。

「さあて、どう話すかだが」

 答えは見えた。それでも心は晴れない。親が与えるものや敷かれたレールを《よし》とせず、安泰な道を離れて自分の空を目指した若者の話を、河西倫太郎はどんな思いで聞いていたのか――それを思うと、戸倉は暗澹とした気持ちになった。

「自分と人――秋吉君の違いを、どう思ったのか……」

 その答えを倫太郎は抱えたまま消えた。一文を残して。

 戸倉は俯き、酔客の間を縫うように帰って行った。

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