第4話 詩織ママ

「待ったというほどじゃありません。でも、他のお店というわけにも行かないから」

 戸倉の言葉の意味が分からず、相手は品のある愛想笑いを見せた。

「ママ、私たち先に行くよ?」

 二十代半ばの女二人は店の従業員――ホステスだ。看板の下部には小さな文字で《bar》と記されている。

 二人が消え、戸倉と和装の女だけになると戸倉は単刀直入に尋ねた。

「ある方のことを知りたくて来た次第です」

 客で無いなら邪魔でしか無い。だが女は不快そうな表情を見せず、「それはどなたの?」と訊いてきた。

「KAGA総合病院の河西先生です」

 女は微笑みを消さず、頷いた。

「それならどうぞ、中に入ってください。こんな場所で立ち話に出すような方じゃありませんから」

 そう言って先に立ち、店にいざなった。


「詩織と申します。以後お見知りおきください」

 そう言ってカウンターに名刺を置いた。開店にはまだ十分ほどある。従業員は手分けして開店の準備に余念が無い。その中でも特に良く動くのが、最初に会った若者だ。何かをしていても次を考えているのが見ていてすら分かった。テキパキと動く三人は余計な話はしない。それでも一言二言なにか言い合っては笑顔が絶えない。その様子を見ていた戸倉は身体を詩織に向けた。

「良いお店ですね」

「判ります?」

「飲み屋を見る目だけは仕事以上にあるつもりですから」

 詩織は笑った。

「それで、河西さんのことだとか?一体どういったことですか?個人のことはなかなかお話出来ないことも――」

 戸倉は頷いた。

「その河西医師のお父様からの依頼です」

「まあ!」

 声を出し、詩織は思案した。

「飲まれますか?」

 そう訊かれたが、戸倉は苦笑を返した。

「そうしたいところですが、何せ仕事中なので……とはいえ、それではこちらにとって邪魔な存在でしか無い」

 詩織はいたずらに頷いて見せた。

「なので、もらいましょう。バーボンを」

「承知いたしました」

 笑ってボトルを探す。

「銘柄は――」

「何でも結構ですが、ストレートでお願いします」

「お強いんですね」

「量はやりません。その分、味重視です。薄くなるのが苦手だから」

 詩織は言われるままに用意した。灰皿も断る戸倉に感心しきりだ。

「吸う人の自由ってあると思うんです。周囲に迷惑でさえ無ければ。でも僕自身は辞めました」

「健康のために?」

「それもありますが、大事な人がタバコ嫌いだったのでね」

 過去形なのに気づいても、そこは触れない。そうした空気が欲しくて、こうした場に行く者は多い。戸倉は観葉植物で見えないドアの方を振り返った。

「オープンですね」

「もう五分過ぎました」

「集まって今日も一日頑張りましょう!みたいなのはやらないんですか?」

「うちではね」

 苦笑した。

「店の基本が整っているかは見れば分かりますし、そうしたお店はセレモニーなんか不要だと考えていますから」

 何の話かは見当が付きそうだが、そばに来た女の子は自分の仕事を素早く淡々とこなして去って行った。

「それで」

 詩織は戸倉の正面に立って促した。戸倉はグラスを握って言った。

「河西医師のことを」

 詩織はカウンターの上に置いた手を組み、頷いた。戸倉が何者かは細かく訊こうとしない。必要であれば自分から言おうと戸倉は考えた。

「亡くなられたことは?」

「勿論存じています。驚きすぎて悲しすぎて、言葉もありませんでした」

「常連だった?」

「そう、まあそうですね。でもほら、猛烈にお忙しい方でしょう?だから常連って言っても、見えていたのは二週に一度とかかしら。ただ、ご本人が仰っていたことですけど、飲むのはこのお店でだけ――と。ありがたいお言葉ですよね。店からしたら。その意味では純然たる常連様でしたね」

 数秒沈黙があった。深みに触れるには自分を明かすのは必須だ。戸倉は話すことにした。

「その河西先生のお父様からの依頼と言いましたが、本当のことです」

 詩織は聞き入った。

「私はお父様に依頼された調査員です。お父様は、自死を選ばれた息子さんの気持ちの動きを知りたがっておられます。その中で、息子さんが残された一通の遺書めいたものを気にされているんです」

「遺書……ですか?」

「そうです。まあ、見せていただいた限り、厳密な意味では遺書と呼べないかも知れ無いなとは思いましたが、それでも残された気持ちであることは事実でした」

「なにが書かれていたんです?お訊きしてもいいのかしら」

 戸倉は、桑原亜弓には話さなかった手紙のことを話す自分が不思議だった。酒があるからとか、そういうことで無いのは自覚している。ただ、人を素直にさせる空気がそこにはあった。

「細かなことは言えませんが、そこには彼が誰かを想っていたようだと――そう感じさせる文章がありました」

 傍らで食器の整理をしていた青年と視線が合った。青年にも話は聞こえているはずだが表情は見せない。こうした商売で最も大切と言えるのが、こうした客との距離感だ。求められていないのに言いたがったりすれば、客から見ればウザいだけだ。青年は心得ている。

「誰かを想う――」

 詩織は首を傾げた。

「それは理解しましたけど、それでなぜここへ?」

 それは戸倉にすれば幾つも無い希望の一つだ。

「まあ、そのお相手がこちらのどなたかならいいなあと」

 笑ってグラスを口に運ぶ。詩織は黙って戸倉を見ていた。

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