第40話 便所と肥

 田んぼに水を張る前に、土を耕して柔らかくする。これを田起こしという。

 そして水を張った後、苗代なわしろを植える前にもう一度、泥と水を混ぜ返して平らにならす。これを代掻きという。

 アカネたちに与えられた仕事は後者だ。なので、水と泥の上という不安定な場所で作業することになる。そんな中でも、雪舟車は力強く動いていた。

 もっとも、意外なことに漕ぎ手はアカネではない。


「兄貴。もっと速度上げてもいいぜ」

「やってる。アカネみたいにちょこちょこ足が動くかよ」


 駕籠屋の兄貴衆のうち一人が、その雪舟車を進ませていた。ではアカネは何をしているのかと言えば、その後ろに乗っている。


「ほっ。はっ」


 後ろについている代掻き用の鍬は、もともと牛にひかせるためのものを改良した。人が上に乗って体重をかけ、地面に深く突き刺す構造となっている。

 もっとも、ただ深く刺さるだけでは進まなくなる。アカネの役割は、そのうえで必要に応じて飛び跳ねることにある。


「お――っとっと。よっ」


 体を浮かせたとき、一緒に鍬も跳ね上がる。これを利用して、土の表面だけを混ぜ返していくのだ。


「この調子なら、苗代を植えるまで引き受けてもいいかもな」

「はぁ? おいおいアカネ。駕籠屋の仕事はどうすんだよ」

「冗談だよ。……アタイは、な」




 冗談じゃすまないのが、久平次という男である。


「ふむ。そりでもつけたら、陸舟車で引っ張れるかもしれないな。苗代を腰に巻き付けるより、もっと多く運べるかもしれない」


 などと、平然と次の車両も作る予定でいた。


「雪舟車――改め、耕作舟車こうさくしゅうしゃの調子はいいようだ。このまま量産すれば、一部に売れるか?」


 土手のふちからアカネたちの仕事ぶりを見て、また図面を書き起こす。墨も筆もないので、その辺の棒で地面に引き始める始末だ。田んぼ周辺の道が、久平次の落書きで埋まっていく。


「旦那。またずいぶん難しいこと考えてるみたいだな」

「お、おお、アカネか」


 いつの間にやってきていたのか、アカネは図面を引く久平次の隣に立っていた。


「……休憩か?」

「ああ、ちょっと厠」


 縛り付けていた股引を解きながら、アカネは肥溜めへと向かった。蓋を少しだけずらすと、そこに跨る。


「な、なんとも直接的だな」

「アタイもそう思ったよ。組合長に確認取ったら、『どうせするならここに』って言われてさ。やり方が分からなかったんだけど、実演までされちまった」

「とはいえ、壁も目隠しも無いところだぞ」

「それは惣後架そうこうか(共同便所)でも辻便所つじべんじょ(公衆便所)でも似たようなもんだろ。まあ、そっちは申し訳程度の壁があるけどさ」

「そ、そうなのか……まあそんなものなのかもな」


 武士として内後架うちこうかのある屋敷に住む久平次と、町民として町に設置された共同便所を使うアカネと、農民としてその辺で済ませるのが当然の人たち。文化の違いが階級によって現れるのも、差別的な時代の象徴である。

 ただ、アカネは郷に入っては郷に従うようで、農民の手伝いをしている間は農民の慣習を重んじるつもりらしい。そんな彼女に、差別意識は特にない。

 何より……


「はぁああ……ん? 久平次の旦那。なんで見てんだ?」

「いや、ずいぶん気持ちよさそうだな、と思って」

「そうだな。仕事に区切りがつくまで我慢してたから、そりゃ気持ちよさも別格だよ」


 その気持ちよさは、どのような身分であろうと変わらないのだろう。


「あ、懐紙がない」

「おお、持ってるぞ。使うか?」

「……いや、さすがにそんな上等な紙、ケツ拭くのに使えないだろ。その辺の藁とかでいいよ。ちょいと束ねてくれるか?」

「あ、ああ」


 アカネが言ってくれた上等な紙というのも、久平次にとってはケツを拭く紙でしかないのだが、このあたりにも身分の違いからくる価値観の差があるらしい。


「なんか、拙者も催してきたな」

「おお、そうか。じゃあ、どうぞ」

「ここで!?」

「ここで。アタイが見てるから」

「いや、こういう時、普通は見ないように気を付けるものではないのか?」

「アタイもそう思ったんだけど、久平次の旦那は見てたよな」

「……すまない」


 これに関してはアカネが正しい。身分と関係なく、普通は女子が用を足していれば目をそらしておくものだろう。

 いつの間にか気の置けない仲になったが、それとこれとは違うと……久平次は自分が恥をかく番になって初めて、そのことに気付くのだった。

 ちなみにアカネいわく、『兄貴衆と比べると立派な方』とのことだった。

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