第39話 身柄と取引

「……なるほど。話は分かりました。久平次殿」

「では、どうかその駕籠屋の太郎吉の身柄、放免していただきたい」


 久平次の説明を聞いた奉行は、すぐに納得してくれた。しかし、


「奉行所としては、その方向で話を進めます。しかし被害者である牛の持ち主――すなわち組合長が納得しないでしょう」

「では、その牛がやる予定だった代掻き、太郎吉に代行させましょう」

「もし逃げたら?」

「その時は、拙者の首をもって償います」


 陸舟車を発明し、整備し、布教するというのは、そういうことだ。武士としても、発明家としても、久平次だけがのうのうと無関係を貫く気はない。

 その覚悟を感じながら、しかし奉行も首を縦に振れない理由があった。というより、増えてしまった。

 万一にも本当に太郎吉が逃げだしたら、久平次を切腹させることになる。奉行としては、長年の友である久平次をこんなところで失いたくはない。


「では、順序を逆としましょう」

「逆……とは?」

「駕籠屋の人員で、牛がやる予定だった代掻きをしてください。その間、太郎吉は牢屋にて身柄を預かります。代掻きが田植え前に終われば、太郎吉を無事にお返しいたす。もし終わらなければ、処刑します。その場合、久平次殿も減俸は避けられませぬぞ」


 逆に言えば、最悪でも減俸で済むわけだ。久平次の願いを聞き入れつつ、最小限の被害で食い止め、民衆にも言い訳が立つ。

 解決よりも、全員の望む納得を求める。

 長いこと奉行をやってきた中で、彼が身に着けた知恵とはそういうものだった。






「よし、やるぞーっ!」


 目標の田んぼで、アカネが叫ぶ。

 駕籠屋にも本来の仕事があるとはいえ、陸舟車の開発によって、そちらの人員は思ったより心配なかった。駕籠屋の棟梁は、常に数名の人員なら送り出せると言ってくれたのだ。ちなみに、アカネたちの休日は犠牲になった。


「それじゃ、アタイが一番乗りだな」


 本来なら牛がやる作業量をこなすとなれば、大男や力自慢の多い駕籠屋でも苦戦するだろう。まして体の小さなアカネに出来ることは少ない。

 それでも今回、兄貴を救いたいと願い出たのはアカネだ。だからこそ、彼女は誰よりも働くつもりでいた。


「つ、冷てぇ……動いてりゃ温まるよな。でりゃあ!」


 春先の冷たい水と、硬い土の中を、アカネは鍬で耕していく。泥が宙に舞い、アカネの顔を汚すが、それも気にしない。


 アカネが半刻ほど働いた頃、遅れて久平次も田んぼに到着した。


「ところでアカネよ」

「なんだよ久平次の旦那」

「それ、人間の力でやる気か?」

「それ以外に方法が無いだろ……あるの?」

「うむ」


 久平次が持ってきたのは、見慣れた車体だった。この冬、何よりも世話になったと言っても過言ではないそれは――


「雪舟車?」

「ああ、そうだ。その雪舟車に、牛が引くための鍬をつけてみた。この車両なら泥の上でも、滑らず前に進むはずだ。身体も濡れないので、冷えたりしないはずだぞ」

「え? じゃあアタイが泥だらけで今まで頑張って来たのは?」

「無駄だな。ご苦労」


 バッサリと言い捨てられたアカネは、ふらふらと肩を落とすと、泥の中を歩きづらそうにしながら土手に寄って来た。気力も体力もまだ残ってはいたが、緊張の糸が切れてしまったのだ。


「久平次の旦那。そういう計画なら先に言ってくれよ」

「いや、すまぬ。拙者としては、この鍬を雪舟車と組み合わせるのが楽しみになってしまってな。すっかりアカネのことを忘れていた」

「発明になるといつもそれだよな」


 脚に付いた泥を振り落としたアカネは、四つん這いで土手を這い上がってくる。


「すまない。その泥まみれの半股引は、詫びに拙者が洗濯しようか?」

「いや、いいよ。汚れてもいい恰好で来てるさ。もう擦り切れそうな半股引だし、ここで捨てても構わない」


 上がってきた茜は、ちょうど腰掛けやすそうな椅子を見つける。脛の中ほどまで高さのある、木箱のようなものだ。何が入っているのか分からないまま、アカネはその木箱に腰掛けた。


「まあ、仕事柄だめにする下着なんかいくつも持ってるし、今更どんなに汚れても――きゃあっ!?」


 ばきぃっ。

 どぼん。


「あ、アカネ?」


 突然、アカネが腰掛けていた板が外れて、姿が消えた。見れば、アカネは腰を折り曲げたまま、お尻からはまっている。


「うあっ。なんだこれ。臭っ! し、沈んでく。助けて久平次の旦那ぁ」

「ああ、それは……肥溜めだな」

「肥溜め!? 冗談じゃないぜ。助けてくれ。脚も伸ばせないから、立てないっ」

「うむ。手を貸したいのは山々なのだが、手を汚したくないのも山々でな。適当な木の枝でも持ってくるので、少し待っててくれ」

「待っ……ぺっぺっ。待てと言われてもっ。ぷっ。あっぷ。待てな――」


 のちに救出されたアカネは、妖怪と間違われ、しばらくの間は里中の噂となった。

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