耕作舟車
第38話 事故と死罪
すっかり季節も春めいて、あの祭りの興奮も冷めたころ、田んぼでは多くの農民たちが働きだしていた。
稲を植える前の、田起こしの時期に差し掛かっていたのだ。
アカネたちには直接関係しないが、ひそかにアカネもこの季節の景色が好きだった。いや、どの景色であっても、季節が変わるというのは楽しい。土が起こされ、力を蓄えた濃い色へと変化すると、春が来たという気持ちになる。
そんなある日のことだった。
「久平次の旦那ぁ!!」
アカネが血相を変えて、久平次の屋敷へと飛び込んできたのだ。細い肩で息をして、素足を地についてよろめく姿は、ただごとではない事態を物語っている。
「どうしたアカネ。ひとまず落ち着け」
「兄貴がっ……兄貴の
「なんと!?」
駕籠屋なら誰もが知る、厳しい定めがある。
もし駕籠や乗り物で事故を起こし、相手に損害を与えるなどした場合、その者には死罪が適用されるのだ。
誰かの命を危険にさらして走るなら、自分の命も賭けねば釣り合わない。武士だけでなく、誰もが命がけで生きている時代に、これは仕方ない取り決めだった。
もちろんアカネも、一歩間違えれば死ぬくらいの覚悟を持っているからこそ、無事に道を進むだけの緊張感を持てると知っている。この緊張感が失われれば、多くの犠牲が出るのも当然だ。
「……でも、いざ死ぬとなると、やっぱ怖いよ。それがアタイじゃなくて、身内なんだ。いくら納得して商売している身でも、往生際は悪いもんだな」
「いや、分からんでもない。拙者も武士として、いざという時は腹を切る覚悟も、主君の命で討ち死にする覚悟も持っておる。しかしその日が来た時、いざ勇んで死ねるものか、自信は持てぬよ」
久平次がそう語ると、アカネはぶわっと涙をためて、久平次に訴えた。
「太郎吉兄さんは、アタイに釣りの仕方を教えてくれた兄貴なんだ。アタイと年も近くて、よく遊びに付き合ってくれた。……陸舟車を兄貴に勧めたのも、アタイだ。アタイがそんなことしなければ、今回の事故は起きなかったかもしれない」
「そう言われれば、陸舟車を作り、駕籠屋に売り込んだ拙者にとっても、他人事ではないな。ううむ……」
藩士としては、むしろここでの死罪を推薦すべき立場なのだろう。しかし駕籠屋に入り浸る久平次としても、じつは太郎吉を知らぬ仲ではない。
あまり話したことはないが、確かに博識な男であった。
「そういえば、此度の事故は牛が相手だったな」
「あ、ああ」
「――であれば、相手も乗り物と同等の責を負うはずだ」
「そうだな。牛も処分が決まっている。そっちも可哀そうだけどさ」
「では、取引を持ち掛けるか」
「え?」
「相手の牛を生かす代わりに、こちらの身柄も保証してもらう。無論タダとはいかぬかもしれんが、弁明の余地はあるはずだ。その事故、どこの管轄か分かるか?」
久平次に聞かれて、アカネは首を横に振った。細かい管轄など、一介の庶民が知っているはずがない。自分の家の近くならまだしも、今回の現場はやや遠いのだ。
「ただ、事故が起きたのは南町だって聞いてる。相手はそこの組合長が飼ってる牛で、代掻きに駆り出される途中だったらしいぜ」
アカネが知っているのはそこまでで、それだって話を途中まで聞いて飛び出したのである。
しかし、それだけで久平次には十分だった。
「それならば、奉行は拙者と旧知の仲だ。光明が見えてきたぞ」
「ほ、本当か」
「ああ。あの奉行は死罪を好まぬ。アカネよ。今すぐ南町まで陸舟車を飛ばしてくれ。拙者を乗せて、な」
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