第33話 色を染める
「ふぅ。ごくらく、ごくらく」
アカネは火照った頬に手を当て、幸せそうに冬の川に浸かっていた。風は常に水面を冷やし、川底に寝そべるアカネの肌も凍らせる。
「それ、本当に気持ちいいのか?」
「最高だぜ。あ、さっきの久平次の旦那もカッコよかった。やっぱ剣術やってるからかな。一撃の重さが違ったよ」
そう語るアカネの腹や脚には、笹で打たれた時の跡がある。背中はもっとひどいことになっているはずだ。まあ、見ての通り水で冷やしているので、腫れ上がったりはしないだろう。
ちなみに、久平次も最初から本気で叩いたわけではない。最初こそ手加減していたが、本人が「もっと強く」と懇願するため、結局本気を出さざる得なかった。
「拙者は風呂屋に戻るが、アカネは?」
「んー、もうちょっと冷えてみるよ。今ようやく震えが止まったところなんだ。だんだんあったかくなってきた」
「そんなわけあるか。……拙者、先に上がっててよいか?」
「えー。風呂に戻ったら、また叩いてほしかったんだけどなぁ」
アカネの震えていた呼吸が、安らかに変わっていく。まるでゆっくり眠りにつくようだったが、
「あ」
何かを思い出したように、急に眼を開けた。
「そういや、久平次の旦那はアタイを探してたんだよな」
「うむ。そうだが?」
「じゃあ、アタイに何か用事があったんじゃないか?」
「ああ、それか。まあ、そうなのだが……」
久平次は少し困った。雪舟車ができたと報告(自慢ともいう)に来たわけだが、今のアカネにそれを伝えてよいものか。
(この分だと、裸のままで乗りたがって、本当にその恰好のまま関所を抜けかねないな)
という、割と笑えない懸念がある。
「まあ、アカネが風呂から上がったら、ゆっくり話そう」
「そうだな。星も綺麗だし、もう少しゆっくり川に浸かるか」
肌の上のシャリシャリした氷に、薄く雪が積もり始める。アカネの形をとるように降り注ぎ、真っ青な肌を白く濁していく。
「久平次の旦那。お願いがあるんだ」
「ん?」
「あと一刻も経ったら、アタイの体を引っ張ってくれないか? じつは一人で立ち上がれなくなっちまってさ。脚も腕も突っ張ったみたいに固まって、全然動かないんだ」
「ああ、分かった。では一刻ほど、拙者は風呂で温まってくる。着替えたら迎えに来るので、この辺の川にいてくれ」
「へへ。恩に着るぜ」
藍より青い唇を、妙に色っぽくすぼめながら、藤の花が咲いたような瞼を、そっと閉じていく。そんなアカネがいつもより女っぽく、また色っぽく見えたような気がした。
久平次が立ち去ると、彼女は安らかに寝息を立て始めた。少しだけ軽くなった体は浮き上がり、水面の氷を少しだけ持ち上げる。
「はぁああ。気持ちよかったー」
風呂で温まったアカネは、いつもの半纏と半股引きに着替えると、久平次と共に歩いていた。
その肌は牡丹のように赤く火照り、瞳は濡れた黒碁石くらい輝いていた。すっかり元気と熱を取り戻したアカネは、一人で歩行することも困難であるらしく、久平次に肩を借りてぶら下がっている。
「そんなに気持ちよかったのか?」
「ああ。心の臓が跳ねまわって飛び出しそうだったよ。こう……胸の奥にきゅーっと力が入って、首の裏から頭まで気の流れが止まるんだ。酒を浴びたってあんなに頭ぼーっとしないぜ。息が止まるかと思った」
「実際に息は止まっていたぞ。あと半刻もすれば命はなかった」
「そっか。楽しかったなぁ。またやろうな。久平次の旦那」
「そうだな。次はのぼせない程度にな」
もう何を言っても聞かない気がするので、適当に合わせておく。
雪舟車の前に来た時、アカネの顔色はまた一層と変わった。
「おお、ついに完成したのか。せっしゅーしゃ」
「それを披露しに来たのだ。それより、もう一人で立てるのか?」
「大丈夫だ。それはそうと、楽しめそうだな」
大興奮のアカネに、久平次はやれやれとかぶりを振った。
「それでは、城下まで帰ろうか。まずは拙者が運転しながら、使い方を披露しよう」
「おう。そしたら途中でアタイと交代だな。水の上は走れるのか?」
「無理だろうな。そういう設計にしていない。それにこの時期の琵琶湖は船でも寒いぞ。風も強くなってきた」
「アタイは昼に一度入ったけど、気持ちよかったぜ」
アカネにとって気持ち悪いものはないのでは……と不思議に思ったが、このくらい楽しめる娘だからこそ、変な発明でも積極的に試してくれるのかもしれない。
(しかし、雪舟車を作ったのは結果的に良かったかもしれないな。アカネが喜ぶだけでなく、こうして冬に出かけて寒い思いをしたり、温まったり……それも本当に一興なのかもしれない)
のちにこの雪舟車が、思わぬ形で活躍する原型となるのだが、それはまた別の機会にでも話をしよう。
もちろん、この物語の中で、だ。
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