第32話 風呂屋

 風呂というのは、その名の通りの風を浴びるためのむろである。風炉ふうろから名前が来ている説と、室から名前が来ている説の二通りがあるが、どちらが先なのかは久平次も知らない。

 最近は湯殿を備えた風呂も人気だが、この宿場では古くから風呂だけの風呂屋があった。ヒノキの小屋に炉を置き、常に水を沸騰させて湯気を充満させる方式だ。

 久平次もひと風呂浴びていくかと、アカネ探しのついでに風呂屋に向かう途中、


「お、久平次の旦那。奇遇だな」


 普段と違う装いのアカネに出会ってしまった。

 腰まで届く濡れた髪を下ろし、濡れた身体に雪を積もらせる、裸の彼女に、


「何をしているんだ?」


 と、さすがに訊ねないわけにもいくまい。




 そのアカネと共に、久平次は道端の団子屋へと入った。アカネの誘いだ。


「風呂ってのはさ。あつーい風をたっぷり浴びて、汗を流して垢抜けるだけじゃないんだ」

「ここ風呂の外だけどな。……で、汗をかく他に何かあるのか?」

「体が温まったら、今度は冷やすんだよ。雪でも水でも浴びて、しっかり冷える。そしたらまた風呂に入る」

「それが何になるのだ?」

「整うんだよ。……あ、おっちゃん。団子ふたつ」

「整う?」


 首をかしげる久平次の前に、団子の乗った皿と二杯の茶が置かれる。ここはアカネのおごりだそうで、久平次もおとなしく受け取って話を聞いていた。


「人間にはもともと、暑いときには体を冷やして、寒いときには体を温める力があるんだよ。気の力だな」


 体の中の気をめぐらせ、またこれを自在に放つことで、様々な力を得ることが出来る。それは久平次も聞いたことがあった。もともと学問は好きである。


「で、暑くなった後に寒くなって、また暑くなるのを繰り返していると、この気の流れを効率よく整えることが出来るんだ」

「なるほど。それで整う、か」

「そう。この宿場町じゃ最近、その考えが流行ってきてな。それに伴って、風呂に入ったあとに外に出て雪を浴び、また風呂に戻るという楽しみ方を――」

「ほう、そんな楽しみ方があるのか」

「――アタイが考えた」

「今すぐやめなさい」


 とんでもない文化を発明する娘だ。場合によってはご法度にする必要がある。


「そんなこと言わずに、久平次の旦那もどうだい?」

「断る。そも、みだりに人前で衣服を脱ぐべからず、だ」

「風呂なら良いじゃないか」

「風呂じゃないから良くないのだぞ」

「ちぇーっ。殿方はいいよな。どこに行くにもふんどし一丁で」

「駕籠屋で育つとそう思うようになるのか……いや、そのふんどしさえつけていないアカネはどうなのだ?」

「女がふんどしなんか滅多につけないだろ」

「うーん。変なところで常識がある」


 そのうち、遠からぬ未来でこのような女性運動が行われ、女性が肌を見せるのは自由だとか、男性と同じような権利を求めるだとか、服装の自由を保障しろだとか、そんな時代が来るのではないか。

 そして、それは明るい未来なのではないかと、久平次も頭を抱える。

「ま、そんなわけだから、久平次の旦那も、風呂に行こうぜ」

「え?」






 ぴしん! ぱしん!


「ぐ、うぐぁ」


 久平次の広い背中に、赤い筋が浮かび上がる。鍛えられた筋肉を持つ彼だが、今は一切の抵抗ができないまま、歯を食いしばって耐え忍ぶしかない。額に浮かぶ玉のような汗は、暑さと痛みのどちらから噴き出すのか……

 またしても笹の葉が、熱い風を切る音がする。その笹は久平次の尻に当たり、玉の裏にまでかすり傷をつけた。


「があああっ!」

「あははははっ。気持ちよさそうだな。久平次の旦那」


 笹を振るうアカネは、とても楽しそうに高笑いしていた。細身であるのに全力で振っているので、アカネ自身にも疲労が見える。


「はぁ、はぁ……久平次の旦那。気持ちいい?」

「こ、これは意味があるのか?」

「ご神体としても使われる笹だぜ。もう少ししたら正月飾りにもされ、穢れを取り除く箒としても利用されるんだ。それを使って、体に宿る邪を払うって儀式を――」

「そんな民間伝承があるのか」

「――アタイが考えた」

「今すぐやめなさい」


 立ち上がった久平次の口元に、アカネはそっと指を添わせた。そのまま腕を抱き寄せると、今度は扉をくぐって外に出る。

 外は真っ白に染まっていた。陶器のように美しい雪化粧をした土手の下には、凍り付いた立派な川がある。

 アカネは容赦なく、久平次を突き落とした。


「ああああああああ」


 みるみるうちに雪だるまになった久平次は、薄氷を突き破って川に飛び込み、心臓を抑えながら上がってくる。


「寒い。寒い寒い寒い。アカネ、し、死ぬっ」

「まだ戻ってきちゃダメだぜ。気の流れを整えるまで、しっかり頭まで浸かって百まで数えような」

「ああああああああああああ」


 哀れ、久平次はまたしても蹴り飛ばされて、冬の川へと戻るのだった。



 後の世で、大陸の北方において一般的な文化である『ばあにゃ』なるものが発見され、和人の間でも流行することになるのだが、それは今から三百年も後の話。

 アカネが考え出したこの風呂は、ついぞ流行る事もなく、文献にも記されないまま歴史に葬られるのだった。

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