第25話 彦根駅伝

 この時代の日の本は、世界でも類を見ないほど、情報網が発達していた。特に飛脚の速さたるや、のちに数百年は語り継がれる伝説となっている。

 その最たる理由が、駅だ。

 もともと駅とは、宿場につけられた施設のひとつだった。短距離では早いが長距離を苦手とする馬を、疲れたら乗り換える方式で運用する。そのために馬を用意し、預かることが出来るのが駅だった。

 そして、駅は馬だけではなく、人間の乗り換えも推奨した。

 飛脚が圧倒的な速度で文を届けられたのは、やはり駅のおかげである。人々は駅から駅へと走り、そこで次の飛脚に文を預ける。こうすることで一人が長距離を走らずとも、複数人で短距離を移動するだけで済んだのだ。


「短距離走か。アタイはちょっと苦手だけど、まあ出来ないこともないさ」


 脚絆と足袋を汚しながら、それでもアカネは街道を走る。というより、


「この街道、秘密の道も多いんだよな。へへっ」


 街道を少しだけ外れて、秘密の道を行く。アカネがそこらじゅうを走りまわり、ついに見つけた獣道だ。駕籠で通ることは出来なかったが、一人だけなら通れる。


 ――ぽつ、ぽつ、


 アカネの頬に、雨のしずくが当たる。大粒のしずくだ。それらは瞬く間に多くなって、やがて滝のように彼女を襲う。


「兄貴の言ったとおりだな。この時期のおてんとさんは気まぐれ、か」


 文が竹に書かれたものか、それとも紙に書かれたものか、それすら解らない。こういうのは開けないのが飛脚の決まりだ。いずれにしても水にはそこそこ強いはずだが、あまり長時間は耐えられないだろう。


「仕方ねぇな」


 アカネは穿いていた半股引を脱いで、それを挟み箱にかぶせる。この挟み箱という道具がどれほどの耐水性を持っているのか、アカネには想像もつかないし不安だった。こう見えて本業は駕籠者だ。飛脚の経験はない。


 夏場の植物はすくすくと育ち、アカネの行く手を阻んだ。棘のあるものや、葉が固いもの、それらがアカネの、むき出しの素肌を痛めつける。

 もちろん、アカネはそういう時の対処法も知っていた。身に着けていたサラシを解くと、それを右腕にぐるぐると巻き付ける。これで草木をかき分けようという算段だ。

 右手にサラシ。左手に担ぎ棒。そして両脚には脚絆と足袋と草履。完全装備となった彼女は、獣道をかき分けて進んでいく。この状態の彼女は無敵だ。……最も大事なところが無防備な気がするが、きっと気のせいである。




 次の宿場まで、時間はさほどかからなかった。濡れた髪を撫でつけたアカネは、寝静まる町を行く。


「たのもー。飛脚はいるかい?」

「おう。どうした? こんな夜中に客か?」

「客っつーか、飛脚っつーか……その代理だな。江戸から京までの荷物を預かってんだ。繋いでくれ」


 アカネに頼まれた飛脚の男は、いぶかしそうにアカネの顔を見て、それから不可思議そうに体を見て、興味深そうに細かいところまで見始めた。


「素っ裸じゃないか。どうした?」

「誰が裸だよ。ちゃんと腕にサラシも巻いてるし、両足に脚絆もつけてんだろ。つーかお前の方が裸に近いぞ。ふんどし締めてるだけじゃないか」

「おっと、そりゃそうだ。まあ、仕事がら、な」

「アタイも似たようなもんだよ」


 そう言われた男は、どんな仕事なら女子供が丸出しで濡れながら歩いてくるのかと考えたが、


「早いとこ頼むぜ。急ぎの便らしい」


 その丸出しの女子供ことアカネにせかされて、しぶしぶ荷物を受け取る。


「よしきた……お、こいつは確かに急ぎだな。幕府からの書状じゃないか」

「判るのか?」

「俺たちには判るようにできてんだよ。布までかぶせてくれて、ありがとうな。それじゃあ行くぜ」


 さっと腹掛けを纏った男は、草履をはいて走り出した。その歩幅と力強さを見たアカネは、本職は想像より速いな、と感心する。


「あ、つーかアタイの半股引……一緒に持ってかれちまったじゃねーか。あーあ、大事な商売道具だったんだがなぁ」


 気づいたころにはもう遅い。今から走っても追いつけないだろうし、足も限界だ。いつになく飛ばして走ったので、ガクガクと震えている。


「これじゃ帰るのも難しいか。――つっても、路銀も無いんだよなぁ。仕方ない。近くで野宿でもするか」


 人から人へ、駅を境にして荷物を受け渡し、繋いでいく。

 この方式は駅伝と呼ばれ、たぐいまれなる速度で情報などを伝達できた。

 ただ、これは人間の体力を使いつぶす方法でもあったため、今のアカネのように限界を迎えるものも少なくない。

 結局、アカネは雨の降る中で一夜を過ごした。

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