第19話 歯車
あれから数日ほど、アカネは久平次の姿を見かけなかった。陸舟車に乗りたいという客は増え、アカネの仕事も多忙を極めたため、こちらから久平次に会いに行く時間も取れなかったのだ。
それにしても、何かあれば用が無くてもアカネに挨拶してくれる彼を見かけないのは不安である。
と、そんなことを考えていれば、
(あれは――)
丁度お客を下ろしたところで、アカネは久平次を見かけた。いつも通り藍染の羽織を着た久平次は、いつもと違って下を向いて歩いている。何かを考えているようでもあり、何も考えていないようでもあった。心ここにあらず、といった感じだ。
声をかけようか迷って、相手の足取りを見ていた。すると、先ほど出てきた路地へと戻るように、また裏へと曲がり始める。どうやら目的地があるわけでもないらしい。同じところを歩いている。
「久平次さん」
ついに我慢できなくなったアカネは、彼を呼び止めた。
「おお、アカネか」
「久しぶり……ってほどでもないか。どうしたんだ? こんなところで」
「いや、散歩だよ」
「ふーん。あ、そうだ。息子さん、どうだったんだ?」
鮨を食って腹痛になった久平次の息子がどうなったか、それすらアカネは知らされていなかった。その質問をしたとき、久平次はすっと茜から目をそらす。
「間に合わなかった」
「え?」
「茜たちもあれほど協力してくれたのに、本当に申し訳ない」
「や、やめろよ。アタイらはどうでもいいよ。その、えっと……」
「拙者が和中散を持ち帰ったころには、もう……」
「っ――」
「ケロッと治っておった」
「――は?」
「いやー、軽い食あたりだったようでな。一晩ほど安静にしていたら、いつの間にか治ったそうだ。拙者が帰ったころにはもう元気に飯を平らげ、おかわりを所望するほどでな……アカネ?」
すぱぁん!
「痛い! 痛いでござる! アカネ、なぜ蹴るのだ」
「うるさい! あんた本当にそういうのっ――ああ、もう!」
久平次の胸ほどまでの背丈しかないアカネが、その顔に蹴りを届かせる。もっとも久平次も直撃を避けつつ衝撃を逃がしているので、往来の人々も何が始まったか理解できない。
見世物かと人が集まってきたあたりで、二人の戯れ(?)も終わった。
「……こほん。あー、まあ、あれだ。それじゃあ久平次の旦那は、なんでさっき暗い顔をしてたんだ?」
「おお、それか。陸舟車の事でな」
「あんたの頭ん中それしかないよな。で、どうしたんだ?」
「うむ。ここではなんだ」
座ってゆっくり話したいということもあって、久平次は自分の屋敷へとアカネを連れてきた。ついでに元気になった息子への挨拶も済ませ、奥の間――ではなく縁側へと案内される。
庭には陸舟車がいくつもあったが、そのうちの一台を久平次が見せてくれた。
「これを見てほしい。どう思う?」
「どうって……あ、中に歯車がついてんのか。それで車体が少し長いんだな」
アカネが気づいた通り、そこには歯車がついていた。踏み板と同じ軸につけられたのは、大きな歯車だ。それが中間の歯車を介して、後輪の軸の小さな歯車へとつながっている。
これによって後輪と踏み板、それぞれの軸が別なものになったのだ。乗り込むところが後輪の真上ではなく、少し前に来る設計になっている。
「歯車は二枚だと、車輪が逆回転してしまうのでな。三枚にすることで今まで通りの走り方ができるようにしている。何より、ひと踏みで進む距離は二倍になるように設計してみた」
「すごいじゃないか。久平次さん」
「うむ。そうなんだが……な」
久平次が自分で乗り込み、実際に走らせてみる。茜ほどの回転数は無いが、これでも開発者だ。当然、陸舟車の運転は得意である。
アカネより大柄な体で、その体重を生かした踏み込みを見せる。すると陸舟車は、ひと漕ぎであっという間に遠くまで行った。
「おお、すごい。アタイよりずっと速い」
と、漕ぎだしは好調だったのだが、
ガタン!
大きな音とともに、車輪が止まった。久平次が転びかけて、手元の持ち手に体重を預ける。
「おっと……まあ、こういう事がそこそこ起きるのだ」
「なんだ今の?」
「歯車を通している軸が、横にずれるのよ。踏み板のがずれる事もあれば、車輪側がずれる事もある。もちろん中間の歯車がずれる事もあるのだが、いずれにしてもこうなると車輪が回らず、踏み板は空回りしてしまう」
「それは危ないな」
「うむ。まあ体重をかけすぎなければ、転ぶことはないと思うのだが、な。それでも外れるときは外れるものだ」
つまり、怪我をすることはあまり心配しなくてもいいということだろう。問題は外れてしまうことだ。
「ちょっと待っておれ。いま直す」
「そんな簡単に直るのかよ」
「うむ。軸が歪んでいるわけではなく、同じ軸に刺さったまま歯車だけが横にずれている状態だからな。押し込めば戻る。力づくで……ふんっ」
簡単に外れてしまう代わりに、簡単に元に戻せるのだ。右に歯車がずれれば、左に戻してやればいい。左に歯車がずれれば、右に戻してやればいい。
「これ、ずれないように左右まで歯車を張り出せばいいんじゃないか?」
「それも試したが、今度は重くなりすぎる。何より横に突っ張る部品があると、そこの摩擦で回りにくくなるのだ」
「それじゃあ、歯車の横に大きな円盤をつけるとかさ」
「よく思いつくな。拙者もそう思って作ってみたのだが……」
と、久平次が指さす先には、アカネがいま思いついたのと寸分違わぬ円盤付き歯車がある。
「ダメだったのか?」
「ああ。円盤ごとずれてしまったり、あるいは歯車が円盤に乗り上げる形で引っかかり、そのまま回らなくなったり、な」
「そっか。カラクリにも遊びは欲しいもんな」
「さようだ。あまりガチガチに設計すると、本来の動きを阻害してしまう。それに緻密な設計にすれば、それだけ作る手間がかかる。必要な制度が高くなりすぎるのだ」
例えば一台だけ作ればいいなら、この藩で一番の職人を呼んで作らせることも出来たかもしれない。しかし大量に生産するとなれば、多くの人手を必要とする。
欲を言えば、誰でも作れるのが究極の理想だ。
「久平次さん、相変わらず商売っ気がないな」
「陸舟車に関しては、な。独占しようなどと思っておらん。たくさんの人たちに楽しんでほしいだけだ。そのためには拙者だけが作れても意味がない」
と、そこは悩みだったが、
「それはそれとして、歯車さえ外れなければ、おおむね走り心地はいいぞ。試してみるか?」
久平次がそれまでの雰囲気を吹き飛ばし、アカネに笑いかける。その笑顔に、アカネも同じくらいの熱量で答えた。
「ああ。乗る」
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