第18話 和中散

 この近江彦根から琵琶湖に沿って南へ、東海道が伸びている。これもまた、中山道と並んで大きな街道だ。この道を行けば八幡。そして草津へと続く。

 その東海道を、アカネたちは駕籠を担いで走っていた。


「すまぬ。急いでくれ」


 駕籠に乗っているのは久平次である。陸舟車はゆったり走るには楽しいのだが、未だに駕籠の速度を超えられないままだった。急用であれば駕籠の方が速い。

 とはいえ、


「これでも大急ぎだ。アタイの足が持たねぇよ」

「本当にすまぬ。申し訳ない」

「なあ、そろそろ何があったのか、話してくれてもいいんじゃないか?」


 アカネにそう言われて、久平次は少し黙りこくった。話すべきか話さないべきか、決めあぐねているのだ。

 しかし、こんな夜中に彼女らを叩き起こし、自分のわがままで駕籠を走らせているのも事実。彼女らの心配りに対して、自分が何も語らないのは不義理だろう。


「誰にも言わぬか?」

「駕籠屋の看板に誓って、客の不名誉は広めないぜ。何よりアタイと旦那の仲だろ」

「そうか……」


 久平次は覚悟を決めて、ことのいきさつを語り始める。駕籠の先に下げられた行灯は、ふらふらと不気味に揺れていた。


「拙者には、アカネと同じくらいの歳の息子がいるのだが、な」

「ああ」

「そいつが食あたりを起こしたのだ」

「はぁ?」


 あまりにくだらない話だったが、久平次の声音は真剣そのものだった。そういえば彼の息子について、アカネは何も知らないし、会ったこともない。


「普段は父親らしい事もしてやれなんだが、苦しんでいる息子を見て、何かできることはないかと考えていてな」

「ちなみに、何にあたったんだ?」

すしだ」

すしだって?」

「いや、たぶんアカネが言っている鮓と、拙者が言っている鮨は別物だ。江戸には生の魚をさばいて、時を置かずにその場で食う鮨が人気でな。てっきり鮒鮓ふなずしのように持ち帰ってよいものかと思って、先日の公務の折に持ち帰ったのだ」


 それを聞いて、アカネはここひと月ほど、久平次と会っていなかったことを思い出した。どこかに行っていると聞いてはいたが、まさかそんなに遠くだとは知らなかった。


「また江戸まで行ってたのか。随分と忙しいんだな。それで?」

「うむ。江戸前の鮨はこちらの鮓と違って、足が早い。あっという間に傷んでしまったのだが、それを処分し忘れて戸棚に入れておいたところ、あのうつけが……」

「勝手に食って勝手にあたったのか。そりゃいやしい事だな」

「末代までの恥である」

「言いすぎだと思うけど、確かに他言できない内容だ。アタイは墓まで持ってくよ」

「かたじけない」


 夜の緊張感は、昼と比べ物にならない。

 足元を確認しようにも、揺れる行灯は安定しない。目の前はちらちらと影を落とし、道の確認が難しくなる。

 遠くを見ようにも、光はそこまで届かない。火の明かりは近くを驚くほど明るく照らしたが、相対的に遠くの闇を深める。


「確認だ。アタイらは草津まで行くんだよな?」

「いや、その手前でいいようだ。拙者も話を聞いただけなので、あまり詳しいことは分からないのだが、草津の手前に是斎屋ぜさいやがある」

「ぜさいや……っていうと、薬屋か」

「ああ。和中散わちゅうさんという漢方を売る店だ。めまいや腹痛、暑気あたりにも効くらしい。かの徳川家康公も腹痛の折に処方され、たちどころに回復したらしい。食あたりに効くかは分からんが……」


 居ても立っても居られない、というのは、こういう事を指すのだろう。何ができるかを的確に考えているのではない。ただ何もしないでいるのが不安なのだ。




 アカネたちの駕籠は、担ぐ者を交代しながら夜通し走り、翌朝には和中散本舗へとたどり着いていた。


「頼もう。和中散を売ってほしい」

「まだ開店前だよ。こんな朝早くに……」

「頼む!」


 久平次はいつになく真剣に手を合わせた。それを見てアカネたちも、同じように手を合わせる。


「ああ、分かったよ。だから拝むのはやめてくれ。仏さんじゃないよ」

「かたじけない」

「今から作るから、急いでも半刻はかかるからね」


 店主が奥に引っ込んで、他の人たちへと声をかける。アカネと久平次は店の中で待たせてもらうことにした。駕籠は店の前に置いておくしかないだろう。

 ほどなくして、轟音が轟く。


 ごごごごごごごごごご……


「な、何だ?」

「向こうか」


 久平次は音のする方へと向かった。そこでは、大きな歯車が回っていた。


「これは?」

「ああ、うちではこうやって、歯車を使って石臼を回すのさ。ほら、見てごらん」


 一番大きな歯車は、人が入れるほどのものだ。実際にその中に一人の男が入って、内側を歩くようにして回している。


「人間の体重で車を回しているのか。驚きの発想だな」

「久平次の旦那。あれ見てくれ。あの石臼、すごい早さだ」


 アカネが指さした方には、いくつかの歯車を経由して繋がれた石臼がある。あの大きな歯車から動力を得ているのだろう。人の手で回せる限界を超えて、まるでコマのように回転していた。


「そうか。大きい歯車から小さい歯車へと繋げば、それだけ回転が増えるのか」

「おや、お侍さん、詳しいようだね。見ただけで分かるのかい」

「拙者はカラクリも得意でな。発明家もしておる」


 その久平次の頭の中に、新たな図面が広がってきた。相対的に、息子のために焦る気持ちがどこかに霧散する。ひとつの事を考え始めると、他が見えなくなる男だ。

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