第9話 帰宅
城下町まで戻って来たアカネは、両手をのびのびと伸ばした。
「な。あっという間だったろ」
「あっという間は言いすぎだが、まあ、確かに驚いた。あのような秘密の道があったとは」
「誰も知らない道さ。なんならウチの男衆だって知らないぜ。だから久平次の旦那も、誰にも言わないでくれよ」
「駕籠で通る道じゃないのか?」
「あの道幅と段差だぞ。駕籠を担いで歩けるかよ」
「なるほど」
本当に、アカネは地理に詳しい。天文に詳しい自分と真逆だな、と久平次は思った。アカネは自分を学がないと言っていたが、学など生きているうちに生き様に合わせて身に付くものだ。寺子屋だけが学をくれるわけじゃない。
「そういえば、アカネはどこに住んでいるんだ?」
「ん?」
「いや、以前、アカネには親がいないと聞いたのでな」
「ああ、それか。なんてことはないさ。駕籠屋の店の中で寝泊まりしてる。そもそも仕事で出ている晩も多いしな」
「寂しくないか?」
「まあ、寂しいな。だから駕籠が好きなのかもしれねぇ」
「ん? どういうことだ?」
「アタイが店で待ってたら、客が来るまで独りぼっちだ。もし客が来ても、アタイが男衆を呼んだら、すぐに駕籠で出発しちまう。そしたらまたアタイは独りぼっちだ。それが嫌だから、兄貴や客たちについていくのさ」
これまで大きく見えていた案内役の背中が、本来の少女のそれくらいまで小さく見えた。必死で強がって男衆に混ざって仕事をしても、やはり少女なのだ。
「親を、憎んではいないのか?」
「憎んだって仕方ないさ。顔も名前も知らねぇんだもん。アタイが駕籠屋の前に捨てられてたの、アタイも覚えてないくらい小さいころなんだぜ」
「それじゃあ、親に会いたいとも、思わんのか?」
「ああ。憎んでないのと、好いてんのとは別だ。どんな事情があってもアタイを捨てた親に違いはないぜ。会っても喧嘩くらいしかすることねぇよ」
「そうか……」
言葉に詰まった久平次は、聞かなきゃよかったと思った。アカネの力になれることなど何もないのに、藩お抱えの武士である自分の身分なら、何かしてやれると勘違いしてしまった。
アカネにしてやれることも、アカネが久平次に望むことも、何もなかったんだ。
ただ、つらいことを思い出させただけだった。
「は、恥ずかしい話をしちまったな。久平次の旦那に、こんな身の上話なんて……」
「そこは恥ずかしいと思うのだな」
「まるでアタイが恥知らずみたいな物言いだな」
「いや、うん。まあ、えっと、あー。そうなのだが、そうだな……すまぬ」
アカネに年相応の女としての恥は備わってないと思うが、そう言って茶化せる流れではない気がした。
「でもさ。アタイも親と同じこと、してるかもしれないし」
「ん?」
「だからさ。アタイも子供を産んで捨てたかもしれないって事」
「……詳しく聞いていいか?」
話の流れが不穏当になってきたので、久平次はまた険しい顔になる。場合によってはこのような往来で聞く話でもない可能性もある。その場合はアカネに聞けば、誰にも聞かれない個室の茶屋くらい教えてくれるだろう。代金は久平次が払えばよい。
アカネもその緊張感を察して、声を潜めてくれた。
「久平次の旦那は知ってるか? 子供をどうやって作るか」
「……アカネは、知っておるのか?」
「ああ、駕籠屋の兄貴たちが話してるのを聞いちまったんだ。兄貴たちは気まずそうにするばかりで、アタイが何を訊いても教えてくれないんだけどさ。それでも立ち聞きしちまった」
アカネは周囲を見回して、誰も自分たちに注目していないのを確認してから、今までにないほど声を潜めて言った。
「アタイ、子供ができること、しちまったかもしれない」
「な、なんと!?」
「いや、仕方ないだろ。こんなのアタイ一人の問題じゃないし、アタイだって知らなかったんだから」
アカネの生い立ちや、普段のふるまいを考えれば、それはあまり想像に難くない。そう久平次は思った。女でありながら男たちに囲まれて、客を取って山の中を走る。そんな生き方をしていて、純潔を保つ方が難しいというものだ。
「子供ってさ……」
「うむ」
「畳の目を数えると、できるんだろ」
「ん?」
流れ変わったな。
「兄貴たちが言ってたんだ。子供は、男と女が一緒の部屋で寝たとき、畳の目を数えてるうちにできるって。……アタイ、そんなこと知らなかった頃にさ。兄貴たちと一緒の大部屋に寝て、つい眠れなかったから畳の目を数えたんだ」
「うむ。そうであるか」
「天井のシミを数えても、子供ができるんだろ。あ、でも天井のシミを数える方は、畳の目より恥ずかしいって聞いたな。新しい畳にも目はあるけど、天井にシミがあったら古い家みたいだもん。そりゃ恥ずかしいよな」
「そうだな」
「でもさ。その時できたはずの子供が、アタイのところに届いてないんだ。どこから出てくるのか知らないけどさ。母親のはずのアタイに顔を見せないってことは、どこかで間違って道に迷ってるってことだろ。それって、アタイが子供を捨てたのと同じだ」
目の前がくらくらしてきた。太平の世で道楽と研究に明け暮れた久平次にとって、今は人生で一番の窮地かもしれない。主君である井伊殿の勅命を守れなかった時より気まずい。
「アカネよ。腹の大きい女性は見たことあるか?」
「ああ、城下町でもたまに見るな。何をたらふく食ったんだろうな。アタイは蕎麦を三人前食ったことがあるけど、ああはならなかったぜ」
「女の友達とかに、子供の話を相談したことはあるか?」
「女の、友達……?」
「いや、失礼した。えー、っと……蕎麦、美味かったか?」
「美味かった。今度その店も教えてやるよ」
その後、久平次たっての希望により、話題はこの辺の美味い蕎麦屋やうどん屋でもちきりだった。
アカネはとても勤勉で、飯処については目を見張るほどの知を持っていた。もっと違う分野も勉強してほしい。
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