第7話 一夜湯治
駕籠の旅というのは基本的に退屈なもので、変わり映えしない山の景色も、久平次を楽しませることはなかった。
ただ、頭の中には新しい陸舟車の設計図が思い浮かんでいる。早く書き上げたくて仕方ないが、まさか揺れる駕籠の中で書き物をするわけにもいかない。
不思議なことに、こんなときアカネがいれば退屈しないのに……と、そんなことを考えてしまった。例えば彼女なら、変な形の雲を見つけては自分を呼び、きれいな花があれば声を上げ、木の根でも突き出ていようものなら転びかけてハラハラさせただろう。
それと、この三日ほどずっと駕籠に乗っていたが、
「腰が、痛いな」
揺られ続けるというのも、ほんの少しずつ負担になる。宿場町でしっかり休めば大丈夫なのだが、夜通しで乗っているとつらくなるものだ。狭い中で腰を曲げているのも問題だった。
「お客さん」
「ああ、すまない。座っている立場で腰が痛いなどと言ったら、おぬしら駕籠者はもっとつらかろうな」
「いや、そうじゃなくてよ」
てっきり文句でも言われるのかと思っていた久平次だったが、駕籠者はそんなつもりはなかった。
「この先の宿場町にな。温泉が湧くんだよ。ちょっと寄り道にはなるんだが、そこで一夜湯治ってのはどうだい?」
「一夜湯治?」
「ああ。最近は流行ってんだよ。本格的に二十日もかけて湯に浸かるんじゃなくて、一晩だけ湯に浸かるのさ。まあ、風呂みたいなもんだな」
「風呂のように、温泉に浸かる、か。……面白い。行ってくれるか?」
「よしきた」
湯治の宿というだけあって、建物は簡素だ。小さな部屋に布団だけ敷いて寝られるように作られていた。
もっとも、久平次はここに泊まるわけではない。風呂に入りに来ただけだ。
「ふむ。よき風呂だな」
入り口から脱衣所、そして湯殿まで、仕切りが一切ない広い空間だった。そのため脱いだ服や置いた財布などを盗まれる心配がない。
湯が冷めるという理由で仕切りを設ける店もあったが、この温泉はよほど源泉が熱いようだ。中を見れば、先客は男ばかり十人ほど。女は一人もいないのが、脱がれた服からも分かる。
「では、拙者もさっそく……と」
仕立てのいい藍染の羽織を脱ぎ、袴を下ろす。襦袢を外し、ふんどしまで解くと、念のために財布をそれらの下にして棚に入れた。
久平次の身体は、三十六歳にしては肌も綺麗で、しっかりと引き締まっていた。いくら道楽と研究が好きとはいえ、武士としての鍛錬も並行している証だ。とはいえ傷のひとつも見当たらないのが、実戦の経験がないことを示している。
太平の世に生まれたので、あまり命の取り合いをしたことがない。人を切ったことが全くないでもないが、切りつけられたことはない。武士との切り合いならともかく、気狂いや盗人に後れを取る久平次ではなかった。
「冷え者でござい。枝が当たります」
と、江戸なりの作法で声をかけて入るが、この温泉にはそぐわないらしい。客は不思議そうな顔で彼を見た。
「……こほん。田舎者でござい」
おずおずと湯殿に近付き、まずは手を差し込んで熱さを確認する。そこまで熱くはない。天然の湯となるとこんなものか、それとも水でも引き込んで薄めているのか。
ざぱぁ……
「あれ? 久平次の旦那じゃないか。寄り道とは奇遇だな」
奥の方から、一人の小僧がやってきた。総髪に日焼けした顔。脚まで小麦色に焼けていたが、腹や胸は真っ白い。
そして、股にはあるべきものがなく、つるんとしていた。
「アタイだよ。アカネだ」
「おお、アカネか。本当に奇遇だな。こんなところで会えるとは思わなんだ」
男だと思った、とは言わない。言わないが、しかし紛らわしい。
「ははーん。おおかた急ぎで駕籠に乗ってきたけど、揺られてるうちに腰が痛くなったってところか」
「ご明察だ。ところで、アカネは?」
「アタイは近くまで客を送り届けて、ついでに温泉に入って帰ることにしたのさ。ここらの街道はアタイの庭みたいなもんでね。湯も宿も飯処も、何でも知ってるぜ」
すっとアカネが腰を下ろし、湯に浸かった。気持ちよさそうに「ほぅ」と息をつく姿が、少しだけ色っぽいと思えてしまった。
「どうした? 入らないのか?」
「ああ、いや。もちろん入る」
なるべく邪念を払うようにして、久平次も湯に入った。
「ここの湯は特殊でね。肌がすべすべになるってので有名なんだ。ほら、触ってみな」
「さ、触るっ!? なにをっ」
「いや、自分の腕とか足とか、どこでもいいけどよ。入ったそばから触り心地が変わるぜ」
「あ、ああ、そうか」
当然である。ちなみに、自分の腕を擦ってみたが、たしかにヌルヌルする。温泉がヌルヌルするのかと思ったが、アカネいわく肌の表面が溶け出してヌルヌルするらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます