第3話 旅の始まり

 近江彦根藩おうみひこねはんから武蔵国むさしのくに児玉郡こだまぐんまでは、おおよそ百里(400km)近くある。駕籠で行くなら四日から七日ほどかかる距離だ。

 蕎麦屋でのやりとりから数日後。アカネたちは駕籠を担ぎ、武蔵国へと向かっていた。もちろん本当に武蔵国まで送るわけではない。途中の宿場町で交代の予定だ。


「えっ」

「ほっ」

「えっ」

「ほっ」


 久平次の旅に同行するのは五名。うち四名は駕籠者である。駕籠そのものは二人いれば担げるが、ずっと走り続けるためには、交代制で休憩する必要がある。残りの一名は用心棒だ。


「ずいぶんと用心深いものだねぇ」


 と、駕籠者の一人が言った。


「俺たちだって力自慢だ。用心棒の先生がどれほど強いか知らんが、いてもいなくても出番はねぇや」

「そーだそーだ。国に帰ってもいいんだぜ」


 と、冷やかす男たちだったが、次の瞬間に足を止める。頭に巻いていたほっかむりが落ちた……いや、切られたのだ。


「拙者に言わせれば、駕籠担ぎの下郎こそ、一人減っても構わんのだぞ。誰から減らされたい」

「い、いやー……用心棒の旦那、冗談でやんす」

「さ、さささ、さすがにございます」

「ご勘弁くだせぇ」

「ふん」


 用心棒は刀を収めると、それっきり何も話さなくなった。元来、無口な男であるらしい。


(やれやれ……)


 久平次は駕籠に揺られながら、始まったばかりの旅に不安を抱えていた。見ての通りだが、駕籠者など大半が荒くれ物で、大した教育も受けていない。礼儀からほど遠い者たちだった。

 それは用心棒も同じだろう。仮にも武士の端くれなので礼節はわきまえているが、仕事がら気が立っている。腕がたつという理由だけで浪人を雇ったが、失敗したかもしれない。



「よし、そろそろ交代しようぜ」


 アカネがそう言い出した。乱雑な総髪にほっかむりを被っただけの姿は、まあアカネらしいとは思ったが、あまり女らしいとは言えない。まして年頃の娘だと考えればなおさらだ。幼子ならまだしも。


「よっしゃ交代だ。アカネ。お前がそっち持て。俺が後ろを持つ」

「親分が休憩するんじゃないのか?」

「俺ももう少しやるよ。与助。お前が休め」

「へい」


 この旅で、久平次が気づいたことがある。

 まず、アカネは思ったよりずっと積極的に働く。交代を申し出る回数も多く、少しでも長く駕籠を担ぎたがる。


「よし、行くぜ」


 そして……これは出会ったときから気になっていたのだが、担ぎ方が独特だ。

 アカネの身の丈では、駕籠の担ぎ棒に肩が届かない。そのため彼女が担ぐときだけは、特殊な道具を使う。この道具は久平次の興味をそそった。


「ほう。見事な……」


 三角形の、小さなやぐらのようなものだ。アカネはこれを、頭から被るようにして乗せる。

 すると、アカネの両肩に櫓の棒が当たる。ちょうど両肩で担ぐような形になるのだ。あとはアカネの頭上を通る梁に、駕籠についている本来の担ぎ棒を乗せる。

 アカネは頭の上で駕籠の担ぎ棒を支えるのだ。もっとも、重さは両肩にそれぞれ分散される形なので、首には負担がかからない。


「そうまでしてアカネが駕籠を担ぐのは、何か理由があるのか?」

「ん?」

「いや、おかしな話だな。……頼んでおいてこういうのも変な話だが、アカネは年頃の娘だろう。こうまでして駕籠を担がなくても、嫁入りするなり奉公に出るなり、それこそ駕籠屋の店番をするなり、何かあったのではないか?」


 久平次が問うと、男衆も口々に言った。


「そーだそーだ。旦那、よく言った」

「飯を炊け。店を掃除しろ」

「いつでも嫁に行っていいんだからな」


 言いたい放題の連中に、アカネは「黙れ」と一喝する。


「アタイは駕籠が好きなんだよ。どこにでも行けるし、いろんなものが見れるだろ。それに……」

「それに?」

「嫁の貰い手なんかねぇや」


 アカネがそういうと、周囲から笑い声がどっと聞こえた。男衆だけではない。先ほどまで声を出さなかった用心棒まで笑い始める。


「てめぇら覚えとけよ」






 中山道なかせんどうは、徳川幕府が整備した街道で、多くの宿場町がある。それぞれの関所は通行手形がないと通れないため、次の宿場町でアカネたちはお役御免だ。


「ついたぜ旦那。宿場町だ」

「おお、早かったな。馬より速いのではないか?」


 十里(約40km)もあった道のりを、アカネたちは半日ほどで走り切っていた。ちなみに馬より速いというのはあながち間違いでもない。人間は長い距離を走るとき、意外にも他の動物より優れた能力を持っていた。


「さて、拙者はこの宿場に一晩逗留し、次の駕籠を探すか。本当なら、アカネを連れていきたかったのだが、な」

「何でアタイにこだわんだよ」

「面白いからだ」

「なんだそれ」


 とはいえ、アカネにも仕事がある。それに次の関所くらいなら久平次の権力も及ぶが、その先の関所まで頼みを聞いてくれるかは分からない。


「アカネたちは、これからどうする?」

「まあ、カラの駕籠を背負っても銭にならないからな。この宿場で客を探すよ。運が良ければ今日中にも見つかるだろ」

「これから暗くなるぞ」

「行灯があるさ。それに、アタイは夜目が効くんだよ。あれ? 言ってなかったっけ」

「初耳だ」


 二人で顔を見合わせて、それから笑い出す。このアカネと一緒にいると、本当に笑顔が絶えない。道中で退屈しなかったのも、十割アカネのおかげだ。


「では、また会おう。アカネ」

「おうよ。帰りに見かけたら使ってくれ。料金は負からないけどな」


 太陽のように笑い、風のように駆けていく彼女は、あっという間に町の向こうへと消えてしまった。

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