最終話 約束

 部屋の中は、俺の心と同じように暗くなんの音もしない静かな空間だ。

 俺は朝比奈さんが死んでから、いつもこうやって部屋の隅にいた。

 ……だけど今日はいつもとは違う。

 いつもならば奏が俺を優しく慰めていてくれた。朝比奈さんの幻が、俺の心を穏やかに包んでくれていた。

 

 けれど今はどちらもいない。

 普段なら漂ってくる料理の匂いも、俺を気遣う優し声も、何もない。

 

 当然だ、俺は奏を裏切ったんだから。

 奏との約束を破り外に出た。

 あれだけ俺の事を大切にしてくれていた人との約束を破ったんだ、当然の報いと言える。


 朝比奈さんも今はもう見えない。

 もしかしたら、また俺が狂った果てに見えるようになるかもしれない。

 けれど、その時の俺はもう“俺”ではないだろうと思う。

 奏はもう来ない。

 狂った俺を支えてくれる人はいない。


 ふと、部屋の隅で座っている俺の視界に小さな箱が目に入る。

 チェストの上に粗雑に置かれたそれは、鍵がついている。

 俺はなんだか気になって、箱を手に取り開けてみる。


 ダイヤル式のロックの暗証番号は何故だか俺の頭にあって、すぐに開けることが出来た。

 中を覗くと手紙が入っていた。


『あ、そうだ! お手紙届いてたからチェストの上に置いてあるからね』


 いつかの朝比奈さんの台詞を思い出す。

 そうだ、これは朝比奈さんからの手紙だ。


 半年前、朝比奈さんに病室で拒絶されたあの日。

 あの日の晩、彼女は息を引き取った。

 ……俺は、死に目にも会えなかったんだ。


 葬式にすら行けなかった俺に、奏が朝比奈さんの親御さんから預かった物だと俺に渡してきたその手紙を、俺はついぞ読むことはできなかった。


 それは、きっと怖かったからだ。

 あんな別れ方をしたのだ、俺を責めているだろう。

 もしかしたら、恨み言が書き連ねているかもしれない。

 朝比奈さんからのそんな言葉を読むなんてこと、俺には出来なかった。

 ……朝比奈さんとの思い出は、せめて幸せな記憶で終わらせたかった。


 今なら、受け入れられるだろうか?

 ほんの少し、きっと短い期間だけ正気に戻った今の俺ならば読むことが出来るかもしれない。

 時間は、優しくて残酷だ。

 半年という時間は俺を狂わせて、そして俺を癒してくれた。

……手紙を読む、それくらいの事ならば出来てしまうほどに。


 手紙の封は既に開いていた。

 手に取ると、ほんの少し朝比奈さんの懐かしい香りがする気がした。


『おはよう。いや、こんにちはかも! それとも……こんばんは? とにかく!きっと久しぶりな悠斗君へ、私から最後の言葉を送ります。

まず……今日はごめんなさい。

もし私にまだ悠斗君へ謝る機会があるなら直接いうつもりだけど、もしかしたらそれは出来ないかも知れないからここに書くね。


 折角来てくれたのにあんな風に追い出して、本当にごめんね。

すごく傷つけたよね? あんな所、悠斗君には見せたくなかった。もっと冷静でいれば良かった。そうすれば、最後位幸せでいられたのにね。


 それと、ずっと傍にいてあげられなくてごめんなさい。

 もっと、もっとたくさん悠斗君の彼女として過ごしたかった。

 悠斗君も、きっと同じ気持ちだったよね?

 多分、私が悠斗君の立場だったらきっと立ち直れないと思う。

 ……もしかしたら、悠斗君も同じなのかもしれないね。

 悲しませてごめんね。


 そして、私の告白を受け入れてくれてありがとう。

 私を愛しくれてありがとう。

 大学生になって、私の癌が見つかっても、それでも私のこと好きでいてくれてありがとう。

 何度お礼を言っても足りない位、悠斗君には感謝しかないよ。


 今も悠斗君を愛してる。君だけを、ずっとずっと愛してる。

 君が私の分まで幸せになってくれる事が、私の一番の幸せだって……そう感じるくらい大好きなんだよ? 今も、これまでも、これだけは変わらない。


 だから……さ、忘れないで。私の事、いつまでも忘れないでいて欲しい。

 ずっとずっと好きでいて欲しい。

 奏さんじゃなくて、私だけを見続けて欲しい。

 ずーっと私を忘れないでいて、そして天国でもう一度再会するの。

 それって、幸せだって思わない? 私は最高だと思うな―。


 ……なんて、これが私の最後のわがまま。

 ねえ、悠斗君。

 これからも……私が死んだ後も、私が好きだった悠斗君でいてね?』


 ――手紙は、酷く読みづらかった。

 文字はぐちゃぐちゃで、所々涙で濡れて滲んでいる。

 鉛筆で書かれた文章には、何度も消された跡がついている。

 朝比奈さんがこの手紙を書いた時の状況がはっきりと想像できて、それだけで涙が出てきてしまう。

 

 わかりました、朝比奈さん。ありがとうございます……。

 俺は心の中でそう呟くと、すぐに玄関へと向かった。

 

 ――朝比奈さんの意思を読んで、覚悟は決まった。

 後は、俺が変わるだけだ。



 半年前までは毎日の様に来ていた古い喫茶店。

この喫茶店は、二階が居住スペースになっていて、今は奏が使っている。

俺は迷わずインターホンを鳴らす。


「何しに来たの? ……別れ話なら、LINEに送ったわよね?」


 突き放すようにそう答える奏の瞳は赤く充血している。

 スマホを見ると、確かに別れようとメッセージが来ていた。


「見てなかった。……それに、俺には奏と付き合ってる認識なんかないぞ」


「あなたが正気じゃない時に弱みに付け込んだのよ」


 奏はバツが悪そうに目をそらしている。


「そうか、酷い女だな」


「約束を破るあなたほどじゃないわ」


 冷たく言い放つ。

 そんなやり取りがなんだか懐かしくて、俺は吹き出してしまう。


「……なによ?」


「いや、久しぶりにこんなやり取りをしたなって思って」


 うっすらと思い出される奏は、どれも甘く優しいものばかりだ。


「もう、終わったことでしょう……。それで、あなたはどうしてここに来たの?」


 奏が、いい加減鬱陶しいといった様子で聞いてくる。

 俺がここにきた理由、そんなものは明白だ。


「奏と恋人になるためにここに来た」


 俺は、当然のことの様にそう言い切る。


「……は?」


 奏は、まるで理解できていない様子だ。


「俺は君が好きだ。ずっと支えてくれて、ずっと傍にいてくれて、俺のために身を削り続けてきてくれた君が大好きだ。もう今まで見たいに狂わない。だから奏、俺と付き合ってくれ」


 そう言って、奏に手を伸ばす。

 奏は涙で充血した赤い瞳を見開いて、俺の顔をただじっと見続けている。


「なん、で……? だって、あなたは朝比奈さんの事が……!」


「手紙を読んだ」


「だったら尚更! だって、あの手紙には……!」


 やっぱり、奏もあの手紙を読んでいたか。

 封が開いていた謎が解けて少しだけすっきりする。


「これは朝比奈さんの願いでもある」


 そう、これは朝比奈さんの望みなんだ。


「悠斗、あなた本当に手紙を読んだの? 忘れないでって、私じゃなくて朝比奈さんを見てってそう書いてあったじゃない」


 ああ、そうだ。

 奏の言う通りあそこにはそう書かれていた。


「ああ、そうだよ。あそこには朝比奈さんの“わがまま”が書かれていた」


「……わがまま?」


「そう、わがままだ。朝比奈さんは意外にわがままの多い人だったんだ。そして俺は、そんなわがままをいつも注意してた」


 いつも大学に行きたくないと駄々をこねていた朝比奈さんを思い出す。

 可愛くて、注意するのはいつもつらかったけど、それでも。


「朝比奈さんは、そんな俺が好きだって言っていたんだ」

「……それって」


 奏は納得した様にため息をつく。

 きっと奏も驚いたんだろう。いくら死が目の前に迫っているとは言え、朝比奈さんがあんなにも俺を縛るような手紙を書くとは思えなかったはずだ。


 きっとあれは、全部朝比奈さんの本音なんだろうと思う。

 けれど朝比奈さんは、俺を縛ろうなんて思わなくて、寧ろ俺のためにわざわざあんなにも分かりやすく書いてくれた。

 ……やっぱり朝比奈さんは天使みたいな人だ。


「私は、この手を受け取っていいの?」


 奏が目の前に伸ばされた俺の手を見て逡巡している。


「受け取って欲しい」


 心からの願いだ。

 俺を支え続けてくれた彼女に、俺は心底惚れている。

 あの時、俺が奏を受け入れたのは孤独に流されたからだけじゃない。

 俺は奏が好きなのだ。底なしの愛情をくれる奏に、俺も自分の気持ちをぶつけたい。


「朝比奈さんの次、なんてのはもういやよ。私は、私は……!」


 そう言って奏が大粒の涙を流す。


「大丈夫だ」

「嘘よ! あなたの頭にはずっと朝比奈さんがいた。私がどれだけ尽くしても、ずっと朝比奈さんの事しか見えてなくて。私との約束なんて、これっぽっちも頭に入れないで……!

今だって、ここに来てるのは朝比奈さんのためなんでしょう!」


「それは違う! 俺は、俺の意思でここに来た! 俺が奏と付き合って恋人になって、家族になりたいからここに来たんだよ!」

「じゃあ、朝比奈さんはどうするの? もう見えないから、それで良いってこと?」


「朝比奈さんには、ちゃんと説明する」

「どうやってよ! 朝比奈さんはもういないのよ?」


 奏が顔を赤くして激昂する。

 俺は大きく息を吸い、もう一度覚悟を決めなおす。


「……朝比奈さんのお墓の前で言うよ」

「……っ!」


 俺のその一言に、奏は押し黙る。

 そうだ、朝比奈さんに言葉を伝える方法なんて一つしかないんだ。


「お墓の前で手を合わせて、お供え物の一つでも上げてさ。そうやって伝えるよ」


 故人へ言葉を伝える一番の方法。

 それはつまり、その人の死を受け入れるという事だ。

 俺が今までずっと出来ていなかった、一番しなければいけない事。


「そう、なら……私も付き合うわ」


 そう言って、奏は俺の手を取る。

 直前まで怒りに震えていた手は、いつもよりもずっと暖かい。

 そんな温もりが、本当に愛おしく思えた。


 ――俺は今日、ようやく朝比奈さんの死を受け入れた。


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死んだはずの元カノが俺にだけ見えている いろはに政宗 @rushia0127

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