第5話 彼女を殺した日

「ただいま」


 まるで普段と変わらない事のようなその一言共に、玄関から女が入ってくる。

 カーテンを閉め切り、何の灯りもないこの部屋で独り膝を折りただただ朝比奈さんの帰りを待ち続けていた俺は、その声に多少の違和感を覚えながらもすぐに玄関の方へと顔を向けた。


「なん、で……?」


 玄関にいたのは、もういないはずの女。

 俺が愛してやまない、会いたくて仕方が無いはずの、けれども絶対に会うことが出来ないはずの存在がそこに立っていた。


「……どうかしたの?」


 黒く長い綺麗な髪が印象的なその女は、訝しげにこちらを見つめる。


「奏、だよな……?」

「あたりまえでしょう?」


 当然のことの様に答える奏に、俺の混乱はピークに達する。


「だって、奏は死んだはずだろう?」

「……っ!」


 俺のその言葉を聞いた奏は、心底悲しそうに顔を歪める。


「……そうね」


 意を決した様にそう言うと、俺の体を抱きしめる。


「お、おい」


 奏の顔が乗っている俺の肩が濡れていく。


「ごめんなさい、泣かないって決めていたのだけど」


「奏、お前はなんなんだ……? どうして、俺の前に?」


 奏の顔が肩から離れ、涙で赤くなった目をこちらに向ける。


「私はきっと、あなたにとって幻の様なものよ。だから、いつかその時が来るまで私は貴方の傍に居続けるわ」


 そう言うと、奏は作ったような微笑みを俺に浮かべ俺にキスをした。



 朝比奈さんとのデートが終わり、俺は一人で家に帰る。

 暫くの間彼女とのデートを思い返して楽しんでいると、ふいに奏が目に映る。


「ちょっといい?」

「い、いたのか……。いいけど、どうした?」


 奏がホッとしたように息を吐く。

 ……そんなに重要な事なんだろうか?


「明日のお昼、外に出ないでほしいの」

「……どうして?」

「そ、それは……。色々よ」


 うーん、正直意味が分からない。

 けど、別に断る理由もないだろう。

 自分の産んだ幻が言うのだ、きっと俺の心の中に理由があるはずだ。……心当たりは全くないけど。


「まあ、別にいいよ」

「約束よ?」

「ああ、約束だ」

「ふふっ、ありがとう。お礼に料理を作ってあげるわ」


 そう言うと、奏がキッチンへと向かう。

 たまに奏も料理を作ってくれる。

 幻が作った料理のはずだが、何故だか腹が膨れた気になるのでありがたい。



 次の日、目を覚ますと珍しく本当に誰もいない一人の朝だった。

 いや、正確には正午は過ぎてるので朝ではないが……。


 俺はかすんだ目を擦りながら乾いたのどを潤すために冷蔵庫を開ける。

 だが、冷蔵庫には何も飲み物が入っていなかった。


「……まじかよ」


 水を飲むのも味気ないし、コンビニまで行くか……。

 適当にジャージに着替え帽子を被り外に出ようとしたとき、ふいに奏との約束を思い出した。

 

 そう言えば、出かけないでとか言ってたよな?

 ……まあ、コンビニくらいなら良いだろう。

 俺は一瞬躊躇うも、すぐに気を取り直して外に出ることにした。


 外の日差しはいつものように強く、殆ど日の光を浴びていない俺の体を焼き焦がすかのように照りつけていた。

 それでも、全くと言っていい程出かけていなかった一ヶ月前よりは楽に出かけられるようになっている。


 今も奏の姿は見えないし、俺はきっと本当に社会復帰に近づいているのだろう。

 そう思うと、足取りも軽くなる。

 外の空気もなんだか心地いいし、久しぶりに散歩でもしてみようか?


 そんな風に久しぶりの本当の意味で一人散歩を楽しみ始めた時、俺は自分の不用意さと不運を激しく呪うことになった。

 ……目の前に、忘れようもない程に印象的で、それでいて今一番会いたくない男が歩いている。


 その大きな身体を小さく縮め、トボトボと歩くその男にバレないように咄嗟に身を隠すが残念ながらすぐに気づかれる。


「よ、よお」


 その男――宏明が一ヶ月前にあった時よりも気弱に話しかけてくる。

 俺を見つめるその視線が一瞬周りを見つめるように動き、すぐに不思議そうな顔をする。


「今日は……」


 宏明が一瞬何かを言いかけて、ハッとしたように口を噤む。


「どうかしたか?」

「いや、なんでもない……。それより、この間はごめんな?」


 一ヶ月前の口論を思い出す。

 あの時の俺は、そして奏も冷静ではなかった。……幻が冷静じゃないというのはおかしなことだけど。


「俺も冷静じゃなかったよ、ごめん」

「お、おう。それじゃ、仲直りだな」


 照れくさそうに笑う宏明を見て、俺にそれまであった胸のしこりが取れていく。

 そうだ、こいつは俺の親友じゃないか。

 きっと宏明なら、俺の力になってくれるはずだ。

 ……ずっと誰にも言えなかった幻の事だって、もしかしたら俺じゃ思いつかないような解決策を見つけてくれるかもしれない。


「なあ宏明、相談があるんだ」

「……相談?」


 宏明がいつになく真剣な眼差しをこちらに向ける。


「俺には、奏が見えているんだ」

「奏が、か……」


 宏明の反応は予想よりもずっと軽いものだった。


「疑ったり驚いたりしないのか?」

「いや、まあ……。それも後で話すよ。まずはお前の話を聞かせてくれ」


 ……どういうことだ?

 まるで何か大きな秘密を隠しているかのようなその態度が俺を不安にさせる。

 だけどもう、事ここに至っては全部暴露するしかないだろう。


「一ヶ月程前から死んだはずの……いや違うな。俺が殺したはずの奏が突然目の前に現れたんだ」

「お前が殺した……?」


 宏明が訝しげにこちらを見つめる。

 しかし、その瞳には友人を殺した男への恨みや怒りなんかは含まれていない。

 ただ純粋に俺が何を言っているのか理解できていないような、そんな瞳だった。

 

「そう、俺は一ヶ月前に確かにこの手で奏を殺したんだ。それなのに、それなのに……!」


 それなのに、あいつは目の前に現れた。

 俺の心を溶かすような優しい笑顔を振りまいて、殺された憎しみなんて全く感じさせずにただ俺に安寧と癒しを与えてくれた。


「奏は、お前に何か言っているのか?」

「わからない。ただあいつは俺を癒してくれて、救ってくれて……。愛してるって、そういい続けるんだ……。けど、俺には朝比奈さんがいるから……!」

「そうか……」


 そう言うと、宏明は何かを考えるように深く息を吐く。


「今、奏は見えているのか?」

「……いや、今は見えてない。今までは一日中見えていたんだけど、最近は少しずつ見えなくなってきてるんだ」


 俺のその一言に、宏明が目を見開く。


「それは、どうして?」


 そんなこと考えるまでもない。

原因なんて一つしかないのだ。


「最近、朝比奈さんとよくデートするようになったんだ。それで段々と外に出るのも怖くなくなって……。最初は奏が支えてくれたから、けど今は……」


 今はきっと、朝比奈さんが俺を支えてくれている。

 俺のその言葉を聞くと、宏明は頭を抱えブツブツと何かを呟いている。

 それはさっきまでの冷静さとは違う、激しく動揺した姿だった。


「なあ悠斗、お前は奏を殺したんだよな?」


 宏明が俺の肩を掴み、真剣な眼差しでこちらを見つめる。


「……そうだよ」


 そう、俺は確かに奏を殺した。

 間違いなくそう認識している。


「どうやって殺したんだ? 刺殺か? 絞殺か? それとも……」


 ……どうやって?


「そんなの決まってる、俺は、俺は……!」


 俺は、どうやって殺したんだ……?

 何も思い出せない。

 一つだけ思い出せるのは、涙で瞳を赤くした作ったような微笑みだけだ。


「悠斗、ついてこい」


 そう言って、俺の手を力強く引きどこかへと俺を連れていく。


「ど、どこに行くんだよ!」


 宏明は俺の抗議の声にも振り向かずに、ただ歩き続ける。


「おい!」


「……あの子の家だよ」


 そう言うと、宏明は“あの子”の家に着くまでの間黙り込んだ。


    *


 「着いたぞ」


 宏明はそう言うと俺の手を離す。

 着いたのはもちろん奏の家……ではなかった。


「どうして……」


 そんなはずはない、こんなものは間違っている。

 認めない、認めたくない、認められるはずがない。


「どうして、朝比奈さんの家に来るんだよ!」


 俺は信じたくない現実の前で駄々をこねる。


「決まってんだろ」


 そんな俺に、宏明が冷たくて残酷な真実を突き付ける。


「死んだのは朝比奈さんだからだよ」


 きっとそれは自分でも気づいていたはずだった。

 いくつもの違和感を、不都合な現実を、そんな色々な物から目を背けて……いや違う、背けさせてくれた“彼女“のおかげで今まで乗り切ってきたんだ。


 だけど今日は、残酷な真実から俺を守ってくれる誰かが偶々いない一日で、それでも彼女は俺を守るために出かけるなという約束まで残してくれて……。

 それなのに、俺は……。


「……何してるの?」


 地面に這いつくばって涙する俺の耳に、震えるような声が聞こえる。


「これは――」


 宏明の声を遮る様に、その声の主は叫ぶ。


「どうして、どうしてここにいるのよ、悠斗……!」


 叫び声がする方を見る。

 そこには、涙と怒りで顔を赤くさせた奏が立っていた。


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