第2話 目を背けて

 ――さん、彼氏さんが来ましたよ。

 

 白衣の女性の声に、白いベッドの上で暇そうに寝転がる彼女がこちらを向く。

 冷たい空虚な表情が途端に熱を帯びる。


「来てくれたんだ」


 その顔とは裏腹に、酷くか細い声で問いかける。

 俺は必死に、そのことに気づかない振りをする。


「毎日来てるだろ?」

「……昨日は来てくれなかったから」

「あー、えっと……ごめん」

「あの人と会ってたの?」


 責めるような目で俺を見つめる。

 よく見ると、体が小刻みに震えている。


「そんなことないよ」

「嘘! 私なんて早く――って思ってるんでしょ! そうしたらあの人と一緒になれるって、そう思ってる!」

「そんなこと……」

「もう顔も見たくないわ! 早く出ていって!」


 細い腕を振り回して、俺を拒絶する。

 彼女の美しい瞳も、涙で潤み赤くなっている、


「……また、来るから」


 俺はそう言って部屋を出た。

 この日の後悔は、きっと一生忘れる事は無い。


  *


 台所から水の流れる音がする。

 しばらく夢心地で聞きながらまどろんでいると、魚が焼けるいい匂いが漂ってくる。

 布団の中に沈み込んでいた意識が徐々に覚醒し、俺を夢の世界から現実へと引き戻す。

 

「あ、やっと起きた」

 

 何故か部屋に入っている朝比奈さんが、俺が起きているのに気づいて嬉しそうに声をかけてくる。


「おはよう、朝比奈さん。いい朝だね」


 日差しが強く、けれども心地の良い気温でとても過ごしやすそうだ。


「うーん、良い朝ではないかな~?」

「こんなに晴れてるのに?」

「だって、朝じゃないし」


 朝比奈さんのその一言に驚いて時計を見ると、時刻は既に十二時を回っていた。

 どうやら随分と長く寝てしまったようだ……。


「随分疲れてたんだね、あれから何かあったの?」


 俺は昨晩の事を思い出し、ほんの少し動揺する。


「え、いや何もしてませんよ」

「……ふーん?」


 かろうじて出た言葉になんとか納得してくれたのか、それ以上の追及はなかった。


「あ、お皿運んでね」


 俺は寝起き眼を擦りながら、台所にある食器を運んでいく。

 そしてあいも変わらず俺が働いたのを褒めると、すぐに食事を済ませて帰っていった。

 三限の講義までのわずかな時間を使って来てくれたらしい。

 朝比奈さんは本当に天使のようだなぁ。


「……おはよう」


 朝比奈さんが帰ったとほぼ同時に、俺の布団でぐっすり眠っていたもう一人の女が目を覚ました。

 綺麗な髪にはかわいらしい寝癖がつき、寝ぼけた顔でこちらを見つめる。

 普段とは違う寝間着姿の彼女はいつもより幼く見える。

 

「もう昼だよ」

「自分だってさっき起きたくせに……」


 さっき朝比奈さんに言われた台詞を言ってやると、もう一人の女――奏が口をとがらせる。


「うっ……」


「まあいいわ、着替えるからあっち向いてて?」


 そう言って壁の方に指をさす。

 幻の癖に妙なところでリアルだ……。

 

 俺は仕方なく壁に目をやり奏が着替えるのを待った。

 後ろから衣擦れの音が聞こえ、ほんの少し気恥ずかしさを感じる。


「もういいわよ」


 振り向くと、全体的に黒めの服装をした普段の奏が立っていた。

 相変わらず、とても綺麗で目を奪われる。


「見とれてもいいけれど、あなたも早く準備してね」

「え?」

「出かけましょう? いつまでも部屋にいたら気が滅入るわ」


 考えてみれば、ここ数日外に出ていなかった。

 色々と買い足さなければいけない物もあるし、外出するのも悪くないだろう。


「いいけど、外では話しかけるなよ」

「どうして?」


 奏が不思議そうに首をかしげる。


「お前は俺にしか見えないだろう、不審がられる」

「……そう、わかったわ」


 奏はしばらく考え込むようにしていたが、納得してくれたのか頷いてくれた。


    *


 久しぶりの外は、まだ六月だというのにやけに日差しが強く感じる。 

 周りを見渡すと、道行く人の多さに身体がすくみ引き返したくなる。

 体が震え、動悸も激しくなる。

 

「しっかりして、大丈夫よ」


 隣に立つ奏が俺の手を優しく握りしめてくる。

 早速約束を破っているが、指摘するほど心は狭くない。

 奏の手のひらを感じた俺は、不思議と心が落ち着いた。

 自分が産んだ幻に助けられるとは、なんとも情けない。


 暫く歩くと、目的のスーパーが見えてきた。

 今日は食材や洗剤なんかを買い足す予定だ。

 スーパーの中はきっともっと人が多いだろうが、俺は意を決して近づいていく。


「……おい!」


 ふいに、野太い声の男が呼びかけてくる。

 声のする方を向くと、筋肉質の男が親し気に手を振っている。

 ――風見宏明、俺の大切な友人だ。

 もっとも、最近は会えていなかったが……。


「久しぶりだな! そうか、だいぶ元気になったんだな」


 宏明は俺に駆け寄ると、嬉しそうに肩を叩いて来る。

 当人は軽くたたいているつもりだろうが、体がでかいので結構痛い……。

 小学生の頃からずっと仲が良かったが、当時から人一倍体がデカくて頼りになるいい友人だった。

 今も俺と同じ大学に通って、去年までは毎日のように顔を合わせていた。


「まあ、多少……」

「うんうん、よかったよかった。よし、折角の機会だし飯でも行くか! もちろん俺のおごりだ」

「え、いいのか?」


 財布に余裕のない俺にとっては、かなり嬉しい提案だ。

 結構腹も減ってるし……。


「ああ、いいぞ。そこのファミレスでもいいか?」

「もちろんいいよ」


 奢ってもらう立場の俺が文句をいう訳にもいかないしな……。


「あー、えっと……」

「……? どうかしたか?」


 宏明が気まずそうにこちらを見つめる。

 まさか、手持ちが足りないとかか?


「あー……いやなんでもない。大丈夫だ」


 一体どうしたんだろう?

 よくわからないやつだ。


「そうか? 都合が悪くなったなら今日じゃなくても……」

「いや、問題ない。早く行かないとこむぞ」


 そういって宏明は足早にファミレスへと向かっていった。


    *


 ファミレス内は案の定とてもこみ合っていた。

 宏明が受付を済ませている間に、俺はソファに座り深くため息をついた。

 目の前には奏が立っており、手持ち無沙汰を慰めるように俺の頭を撫でたり顔を触ったりしている。

 

 こんな人込みで話しかけるわけにもいかず、俺はニヤニヤと嬉しそうに笑う彼女を受け入れるしかなかった。


 そうこうしているうちに意外と早く呼び出された俺たちは、四人掛けのテーブル席へと案内された。

 

「宏明は何を頼むんだ?」

 

 まずは奢ってくれる人に決めさせるべきだろう。

 親しき仲にも礼儀あり、だ。


「うーん、じゃあこのハンバーグセットかな」

 

 そう言って、メニューを俺に差し出しスマホを見る。

 ちなみに奏は、俺の隣で退屈そうに頬杖をついている。

 幻の癖に退屈とかあるのか……。

 少しすると、宏明が焦ったようにメニュー表を再度自分の手元に寄せた。


「どうした?」

「いや、ちょっと足りないかなって思ってな……。 ミックスフライセットも頼むよ」

「二つも食べるのか? ここって結構量が多いぞ?」


 いくら体が大きいとは言っても食べ過ぎだろう。

 宏明ってこんなに食べる奴だったか……?


「いいんだよ! ほら、早くお前も選べ」

「そ、そうか……? じゃあ俺もミックスフライセットにするよ」


 そう言うと、宏明は満足気に頷いて呼び鈴を鳴らした。


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