死んだはずの元カノが俺にだけ見えている

春いろは

第1話 殺されたって愛してる

「例えあなたがどれだけ狂ったとしても、私はあなたを愛してる」

 

 そんな台詞をあの子から聞いた。

 あの子の絹のように美しい黒髪も、透き通る様な瞳も、細身で触れる事が怖くなるようなか弱く愛しい身体も、全て覚えている。

 

 だが、少しずつ少しずつ、あの子との記憶が薄れていく。

 

 いやだ、忘れたくない。

 俺は一生あの子を覚えていたいのに、ただそれだけの事が叶わない。

 薄れゆく記憶の中で一つだけ確かな事がある。

 

 その台詞を聞いた一ヶ月後に、俺はあの子を殺したんだ。

 

   *

 

「お夕飯できたよ、早く食べよ?」

 

 テレビすらついていない静かな部屋に、明るい声が響く。

 暗く重苦しい俺の部屋を一声で明るくするその声の主は、台所から移動しリビングの真ん中にある小さな机にテキパキと皿を置いていく。

 

「もー、お皿置くのくらい手伝ってよ」

 

 ほんの少し怒ったような声で俺の目の前に立ち、ぼんやりと座る俺を見下ろす。

 俺が静かに顔を上げ目を合わせると、元陸上部の引き締まった体が目に入る。

 

 更に顔を上げると茶色い髪を後ろに縛り見下ろす彼女と目が合い、実年齢より幼く見える可愛らしい顔をニカっと言う効果音が聞こえてきそうなほどに破顔させ俺の手を引く。

 

「痛いよ朝比奈さん」

 

「君が手伝わないのがいけないんでしょ! ほら、早く手伝って」

 

 立ち上がった俺の抗議をあっさりとかわし、背中を押して台所へと押しやってくる。 

 相変わらず強引な人だ……。

 俺は食器棚から茶碗を取ると、炊飯器からご飯をよそい食卓へと持っていく。

 

「よくできました!」

 

 先に座っていた朝比奈さんがわざとらしく手を叩き褒めてくる。

 

「ご飯もってきただけなんですけど……」

 

「それでもこの間までよりは全然よくなったよ」

 

 そう言うと、朝比奈さんが嬉しそうに笑う。

 確かに、ほんの数日前までの俺は記憶が不確かになるほどに酷く落ち込みただ茫然と人生を消化していただけだった。

 

「そう……ですね」

 

「うんうん、そうだよ! さて、誰のお陰かなー?」

 

 そういっていたずらっぽく笑う朝比奈さんの顔はいつもよりも余計に可愛く見えた。

 だからこそ、俺はそんな朝比奈さんの顔を直視できない。

 

「もちろん、朝比奈さんのおかげですよ」

 

 嘘だ。

 俺がこうして普通に話せるようになったのは決して朝比奈さんのおかげではない。

 

 俺たちが話しているのを悲しそうに眺めながら台所の隅で肩身が狭さそうに座っている女のおかげだ。

 

 女の名前は如月奏。

絹のように美しい黒髪と、透き通る様な瞳、細身で触れる事が怖くなるようなか弱く  愛しい身体が特徴的な美しい少女。

 

 つまりは、俺が殺したはずの女だ。

 

   *

 

「もう帰るんですか?」

「夜も遅いし、門限もあるからね」

 

 食事が終わり、夜の九時を回ったころ朝比奈さんが帰宅すると言い出した。

 実家暮らしの彼女には門限があるから仕方ない。……仕方ないが、やっぱり寂しい。


「あ、そうだ! お手紙届いてたからチェストの上に置いてあるからね」

「手紙ですか……? ああ、はい……後でチェストを見ておきますね」


 俺はちらりとチェストの方を見て、すぐに朝比奈さんに向き直る。

 

「送っていこうか?」

「いいよ、近いし。それよりも、ね?」

 

 そう言うと、朝比奈さんが両手を広げ目を瞑る。

 俺はそんな彼女に近づき、強く抱きしめた。

 

「もっとぎゅーってして? 家に帰ってから寝る時に寂しくないように」

 

「大好きだよ、朝比奈さん」

 

「私も悠斗君の事大好き! ずっと、ずーっと一緒にいようね」

 

「……もちろん!」

 

 そう言って彼女の唇にキスをする。

 俺は幸せを嚙み締めながら涙を流す。

 ここ数日で随分と情緒が不安定になってしまったようだ。

 

「じゃ、またね」

 

「うん、また……」

 

 その言葉を最後に、鉄の扉がゆっくりと締まり朝比奈さんとの夢の時間が終わる。

 部屋には夢の残骸が残り、明日また朝比奈さんがこの部屋に現れるまでの間は現実が重くのしかかるのだ。

 

「楽しかった?」

 

 目をそらしたい現実が、俺に話しかけてくる。

 彼女――奏の声を無視して食卓にむかい食器を片付ける。

 

「楽しそうでよかったわ」

 

 俺が無視したのを気にしないように、奏が微笑む。

 一瞬だけ見えた彼女の瞳が赤くなっているように見えて、思わずまじまじと見つめてしまう。

 

「まだ見えてるのね、よかったわ」

「当たり前だろ、お前は俺が産み出した幻みたいなものなんだから」

 

 そう、幻だ。

 俺の記憶が、脳が、確かに彼女を殺したと告げている。

 ならば彼女は、おぼろげな記憶の中に深く刻み込まれた思い出が作り出した幻のようなものなのだろう。

 

 それほどに、俺の心は壊れてしまったのだ。

 

「……幻、ね」

 

 奏はそう呟くと、静かにため息をつき食器を洗う俺の後ろに立つ。

 

「私はあなたにとって幻みたいなものなのかもしれない……けどね?」

「……! おい!」

 

 奏が俺を抱きしめ、体を押し付ける。

 その感触は記憶に残る奏そのもので、俺の心を激しく動揺させる。

 

「今は溺れていいのよ? 幻の私に溺れて欲しいの」

 

 そんな奏の言動が、これは幻なのだと更に確信させる。

彼女はこんなこと絶対に言わない。

自分を殺した男に、こんなにも媚びることが出来る物か。

 

「……やめろ!」

 

 腰を掴む奏の手を引きはがし振り返る。

 奏は、作ったような妖しい笑顔をこちらに向ける。

 その顔が俺に恐怖と、そして愛情を思い出させる。

 

 かつて愛した女の、忘れられない表情がそこにはあった。

 

「捕まえた」

 

 俺の顔を掴み心底嬉しそうな声でそう言うと、俺に激しくキスをする。

 避けることはできなかった。

 

 きっとそれは、体でなく心の問題だ。

 俺はもう、目の前の幻に夢中になっていたのだから。

 

 永遠にも感じる数秒の後、俺たちの唇の距離が離れていく。

 満足気な奏の顔が愛しく見えた。

 瞬間、朝比奈さんの愛らしい笑顔が脳裏に映り心が痛む。

 

 幻が相手でも、浮気になるだろうか……?

 

「お前は俺が産み出した幻なんだろう? ならどうして俺に逆らうんだよ」

「さあ、どうしてかしらね? 本当はあなたが望んだことだから、とか?」

 

 俺が望んだ……。

 数日前に奏が見えるようになってから、俺の世界はもう一度色を取り戻した。

 

 俺は、これを望んでいるのか?

このまま奏に溺れて生きることが俺の願いなんだろうか……。

 

「今はそんなことどうでもいいでしょう? ほら、長い夜を楽しみましょう」

 

 そう言うと、奏が俺の手を引きリビングへと向かう。

 

「奏……」

 

「今は、何もかも忘れていいのよ? どんなあなたも私は愛するわ! だから、私に溺れて? ……記憶の中の私も、きっと同じことを言うはずよ」

 

 これは俺の都合のいい幻だ。

 だけど……今は溺れてしまおう。

 きっとこれは、俺が完全に壊れてしまうまでに神様がくれたモラトリアムみたいなものなのだから。

 

「奏、愛してる」

「私も、あなたのことを愛してる。例えそれが、どんなあなたであろうと私は変わらず愛し続けるわ」

 

 都合のいい幻は、今夜も俺に幸せな夜と明日を生きる希望をくれた。


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