第11話 鬼子母神
恐らく俺はこれほど長時間の間、車に揺られていたのは初めての経験だった。十年前を振り返ったとしても、こんなに長いこと車に揺られた経験はない。
しかも、しかもだ……。
「おいおい字見、そんな調子で字見灰治にたどり着けるのかのう」
「……いいか、これだけは言っておくぞ。俺がこんな風に消耗しているのは決して俺のせいだけではないことだけは間違いないからな」
ケイは両腕を上げ、肩を竦めるポーズを取る。心外だとでも言いたげな仕草だったが、心外だと言うならそれこそ俺のセリフだろう。
俺とケイは現在
しかし……。
「まあまあ、そんな大したことじゃない。いいからその物騒な爪は仕舞っておけ。きっと字見も気に入るはずじゃからの」
と、そんな感じの甘言に乗せられたのが運の尽きだった。やはりこの女、どれだけ美麗な見た目をしていても中身は間違いなく魔女だ。
俺の格好は牢獄を出た当初の囚人衣から着替えさせられており、シャツにジーンズという至って普通の格好をしていた。ケイが思いついたのは、俺を着替えさせることだったのだ。結果、俺は引きずられるままに商業施設の詰まったデパートじみた場所へと連行させられた。
まあ、十年も俗世間から離れていたせいかもしれないが格好に無頓着だったのは認めよう。だが、そのせいで俺をビスクドールよろしく好き放題にコーディネートして弄んだことだけはどうにもこうにも納得がいかなかった。
「いいじゃなろう、そなた素材は大分よいのだぞ?」
なんて言われたが、それで「はい、そうですか」とは納得できなかった。これから大仕事に臨もうという前に、俺のスタミナはごっそりと削られてしまった次第である。おかげで車酔いまで復活してしまう始末だ。
げっそりとする俺を後目に、ケイは車を飛ばした。気づけば時間はすっかり夕暮れ時に差し掛かっている。
「……」
「随分口数が少なくなったのう、外に出たばかりでは調子が出ないか」
なんだか煽られているような気がしたが、お前のせいで調子が出ないんだよとまでは言わなかった。ゲッソリした気持ちを、どうにか奮い立たせる。これから会いに行くのは他ならぬ俺自身の母親だなのだ。十年ぶりに再会する母親は、一体どんな姿をしているのだろう。魔孤魅やケイと違い、俺の母親は普通の人間だ。十年もの時間があれば、十年分歳を重ねているはずだろう。
しかし、それ以上に気になるの母親が俺の顔を見て、どんなリアクションをするかだ。驚くだろうことは間違いないが、喜ばれるかどうかは怪しい。
何せ、彼女は十年の間一度も俺に会いにはこなかった。
親父ならいざ知らず、子である俺に情があるなら一度くらいは面会に来てくれてもよかっただろうと今でも思う。流石に俺の罪が無実なものだとまで主張してくれとは言わないが、それでも母であるならと思わずにはいられない。
一度でも母さんが俺の下を訪れてくれていたのなら、俺はまだもう少しだけマシな人間だったようにも思う。なんて、それもいい加減無責任な話だが。
と、その時だった。
「がっ……!?」
「むっ」
俺とケイ、同時に奇妙な感覚に襲われる。一瞬俺を捉えるために寛恕院が何か仕掛けてきたのかと考えたが、違和感を覚えたのは俺だけではなくケイもだった。一瞬ケイの眉間に、苦悶の皺が寄る。俺に至ってはほんの僅かな時間とはいえ、窒息しそうだった。
「なっ、何が」
「ちっ、結界の類か。下調べの時にはそんな情報はなかったはずじゃが」
舌打ちと共に車の速度を落とす。どうやら何かの結界を踏み越えたらしい。顔を上げると、フロントガラスの向こうに住宅街からやや離れた場所にポツンとアパートが建っていた。とてもではないが新築と言えるほどの見てくれではなく、築三十年前後くらいと言ったところだろうか。流石に深月洞の方がマシとまでは言わないが、あまり住みやすそうな立地でもない。
どうやらこの建物が俺たちの目的の場所のようだった。俺の古い記憶の中では、俺の生まれた家はこんな場所ではなかったはずなので、母さんは俺や親父が捕らえられて以降に引っ越したらしい。
「爺さんたちは、母さんのことを助けてくれなかったんだろうか」
「……」
ケイは何も言わずに車から降りる。俺も続いて車を降りた。無機質な電子音が響き、車体の扉がロックされる。離れた住宅街を見ると、仕事帰りの人々が次々と帰ってくる姿が見える。学校や遊びから帰ってきた子供たちの声が、楽し気に聞こえてきた。
寂しい。
そんな気持ちは、きっとあまりにもありふれている。あまりにも、普通だ。でも、それでいいのだとも思う。このアパートは、きっとそういう気持ちから目を逸らしてはいけない場所なのだと、何とはなしに思った。
甲高い音が響く。一歩進むごとに、ケイの踵が錆びついた階段の一部を散らしていた。メンテナンス自体は行われているのだろうが、重要なところ以外はかなりおざなりらしい。階段には手すりがあるが、こんなものに体重をかけようものなら簡単に下に落ちてしまいそうな不安定さだった。
字見渚が暮らしている部屋は二階の一番突き当りの部屋だった。他にも住民がいるのかは分からないが、どの部屋の前を見てもそんなに生活感があるようには見えなかい。にわかに、こんな場所で母さんが暮らしているのかと不安になってくる。ケイの下調べがどれほど信頼のおけるものなのかはまだ計りかねているところではあるが、前情報が外れるなんてことさして珍しくもないだろう。
「さて、この国の言い回しに倣えば蛇が出るか鬼が出るか……と言ったところか」
「人の母親を何だと思ってるんだよ……」
呆れつつ、部屋の扉の前に立つ。アパートなので表札も何もないが、この部屋の前だけは物が置いてあったりして生活している気配を感じられた。意を決し、ドアノブに手を触れる。
……だが。
「……鍵がかかってる」
「んん、どうやらそなたの母は随分と用心深いようじゃな」
「女の一人暮らしなんて、そんなもじゃないのかね。どうする、出直すか?」
「仕方ない、代われ」
「お、おい」
ケイが俺のいた場所に立つと、同じようにドアノブを握る。軽くひねってみるが、別に俺の感覚が変だったわけでもないので、当然鍵はかかったままだ。しかし、ケイは深く息を吸い目を閉じると――
「ガチン!」と、金属が悲鳴を上げる音が聞こえた。
「何を……!?」
「そなたの言うところの、大したことのない魔術で鍵を開けたのじゃよ。錠ごと断ち切った」
「切ったって、見えてないだろ……」
「そこはそれ、イメージの世界じゃな。ここにあるとイメージして、三次元的に斬撃の結果だけを置いたんじゃ」
分かるような分からないような、ひどく抽象的な説明だった。どちらかと言えば聞いたことを後悔したくなるような気分だったが、ケイは自分の魔術を語る時は嬉しそうに語ることを俺は今日の短い時間の中で分かりつつあった。ケイが気分よく仕事ができるなら、これも必要経費というやつなのかもしれない。
「お邪魔します」
ほとんど押し入り強盗のようだが、ケイは律儀に挨拶なんてしていた。俺もするべきだろうかと思ったが、何だか他人の家に上がるような気分だったので本当に小さな声で「お邪魔します」とだけ言っておいた。
中に入ると、流石に玄関前よりは人の生活の気配がある。いや、ありすぎると言うべきか。中の状態は、ひどいものだった。物という物が、部屋の中だろうと廊下だろうと関係なしに散乱していたからだ。廊下に至っては床が見えなくなるほどに物が散らかっている。衣服、壊れた入れ物、家電、その他諸々。俺がまだ両親と暮らしていた頃は、こんなにも家の中を散らかすような人ではなかったはずだ。
変わってしまったとしたら、その原因は間違いなく俺と親父のせいだろう。チクリと、なけなしの罪悪感が俺の心臓を刺す。俺にはどうすることもできなかったというのに。
「さて……ん?」
踏み込んでいくと、真っ暗な部屋の中でモゾモゾと動く影があった。ボサボサの髪に、ヨレヨレになった衣服。虚ろな目が、暗闇の中で鈍く光った。
「……まさか、母さんなのか」
思わずゴクリと喉を鳴らす。一瞬で緊張が全身を強張らせた。縫い付けられたように、足がその場から動かなくなる。もしこの場で、俺がたった一人だったならどうすることもできなかったに違いない。
ケイはと言えば、肩眉を吊り上げ不気味な人影を観察していた。
「人間なのは間違いないのう。せめて明かりくらいはつければよいものを」
「あ、あああ、貴方たちは、誰、なの……」
母さんらしき人物はガタガタと震えながら、その場所からユラリと立ち上がる。声が掠れているのは、久しく声を出していないせいかそれともこんな劣悪な環境に自身を置いているせいなのか。
「聞いてない、聞いてない、聞いてない!」
「かっ」
声が出なかった。目の前にいる母親は、十年の歳月以上に年齢を重ねているように見える。肌はひどく乾き、目は焦点が合わず、髪も傷み切っている。およそ、実年齢にはふさわしくないほどの憔悴ぶり。精神が安定を欠いていることなど、一目見れば分かるほどに。ケイの言い様ではないが、これでは蛇や鬼よりも……ずっとひどい。
俺以上に――この人は壊れていた。
救いようもなく、縋りようもないほどに。
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