第12話 専守最強の払﨑

 「母さ……」

 「触るなっ、触れるなっ、来るな、来るなぁ!!」

 「聞いてくれ母さん! 俺だ、懸命だ!」

 「けん、めい……?」

 必死になって喉を震わせ、どうにか母さんに呼びかける。人間とは不思議なもので、自分以上に取り乱す相手を目の前にすると気持ちが落ち着くものらしい。母さんもまた、俺の声が届いたのか少しばかり俺に目の焦点が合った。

 これで話し合いができる。

 しかし、そんな俺の淡い期待は容易く手折られてしまった。母さんはすぐそばに転がっていたカッターナイフを手に取ると、自らの胸の前で両手で構える。

 「何で……母さん!?」

 「うる、さい……母親なんて、呼ぶんじゃない。お前は、子供でも何でもない」

 「あ……」

 目の前が一瞬で真っ暗になった。俺が恐れていることは、奇しくもこの瞬間現実のものとなる。今に至り、俺はこの十年誰も俺の下へとやってこなかった理由を思い知らされたのだ。こんな、いかにも精神が崩壊したような人間がわざわざ監獄まで面会に来られるはずなんてありはしない。

 俺をこんなにも、拒絶する人間が――

 「まったく、困った母親じゃ」

 「あんたも、邪魔だ……消えろ、消えろ、消えろっ!」

 「おっと」

 ブンブンと振り回すカッターを、ケイはヒラリヒラリと舞い落ちる木の葉のように交わす。刃先が空を切る度に、母さんの顔に怒りがこみ上げてくるのがありありと見て取れた。

 ケイは避けながら、挑発するように母さんに語り掛ける。

 「そなたの息子であろう」

 「息子……? そんなもの、私にはいない!」

 「なら夫はどうじゃ」

 「夫もいない、いない、いない、いないんだ! 私は、ずっと一人だ! 誰も、誰も助けてくれなかった。夫も、息子も! あいつらのせいで、私の人生はめちゃくちゃになった! もう、放っておいてちょうだい!」

 枯れ果てていただろう瞳から、大粒の涙が散る。

 ああ、そうか。そうだったのか。

 不幸なのは、俺だけだと思っていた。けど、それは思い違いだった。この人もまた、人生が狂ってしまった。俺がいなくなり、親父がいなくなり、そして一人になった。親族たちは、彼女を助けなかったのだろう。術師の世界で、ただ一人の一般人は寄る辺を――頼りをなくして彷徨う他なくなってしまった。

 そう気づいてしまった時、全身から力が抜けていくような気がした。

 「なら、どうしてこやつに会いに行ってやらなかった」

 「……それ、は」

 「一人だったのは、そなただけではなかろう」

 「うるさい、うるさいっ……あっ」

 母さんの動きが止まる。ブンブンと、素人丸出しの動きで振り回していた刃はついにケイの動きを捉えたのだ。いや、逆か。

 ケイが、

 限界まで延ばされた刃は、ケイの頬に当たり止まっていた。出血を覚悟していた母さんは、刃が食い込むどころか押し返されている感覚を味わっているところだろう。

 ケイがカッターに向かって軽く力を入れると、上下関係を思い知らされたようにパキンと軽い音を立てて落ちていった。母さんはと言えば、そんな異様な光景に言葉を失っている。俺は、母さんにかける言葉を失っていた。いや、もう自分に彼女と言葉を交わす資格があるのかさえも怪しい。

 交わらなかった孤独は、どこまでも交わらないままにどこまでも境界線になって伸びていく。

 ただ一人、ケイを除いて。

 「落ち着いたところで悪いが、一つ聞きたいことがあって今日はそなたを尋ねたのだ。言葉は分かるか?」

 「……」

 三人の世界に、静寂が訪れる。母さんの沈黙に構わず、ケイは続けた。

 「そなたの夫を探しておる。字見懸命だ、行方を知っていれば教えて欲しい。もちろん対価が欲しいと言うなら準備もある」

 「……」

 「教えてほしい、この通りだ」

 「……分からない」

 それだけ言うと、母さんはその場で倒れこむように気を失った。幸い命に別状はないようだったが、無理やり起こすわけにもいかない。本当に、人と関わるのが久々だったのだろうと思わされる。当時の母さんを知っている身としては、一般人ながら術師の家に嫁いだなりに母さんはどうにかやり過ごしていた様に見える。それが、今となっては見る影もなかった。

 俺たちが、彼女の人生を壊してしまった。

 「どうやら息はあるようじゃな、死んではおらぬ。しかし、こんな状況でよく生活できたものじゃな。いわゆる、セルフネグレクトというやつか」

 「好き好んで母さんもこんな生活してたわけじゃないだろ」

 「クク、好き好んで牢獄生活をしていたヤツがそれを言うか」

 「それは……」

 「見放されても、母は母。子は子じゃな」

 こんな皮肉な形で、俺と母さんが親子であることを再確認する羽目になるとは。

 脳裏に、目を剥き俺を拒絶する母さんの姿が再現される。どこか、心は冷え込んでいくようだった。いや、こうなることは本当は分かっていたような、そんな気さえする。

 

 会いたかったと、抱きしめて欲しかったのだろうか。


 無意識に、ギュッと唇を噛み締めていた。悔しいのか、悲しいのか。そんな気持ちさえ、絡まった糸のように解きほぐすことは簡単ではない。

 ケイはしばらく母さんの横顔を眺めていたが、結局何かしてやるようなこともなく膝についた埃を払いながら立ち上がった。顔にはもう、この場所には関心はないと書いてある。

 「気は、確かかの」

 「ああ、覚悟はしてたけど……思ったほどでもなかった」

 「そうか」

 俺も立ち上がり、母さんに背を向けた。強がりだなんて、ケイにはお見通しだろう。何も言わないことが、むしろ心地よい。きっとここは、俺が帰ってくる場所じゃなかった。だとすれば、俺はやはりあの洞窟の檻の中にいたままの方がずっとマシだったのではないかという考えはあながち間違いではないようにも思える。処刑されるという、ただ最悪の一点を除けば。

 「なあケイ――」

 ケイの背中に声を掛けようとした時、周囲に無数の斬撃の跡が生じた。何が起きているのか理解できない俺の頭は、条件反射的に肉体を変化させて守りの体勢を取るしかなかった。

 (何が起きた!?)

思考を言葉にする間もなく、ケイは開け放たれた出入口の扉に向かって殺気を向けていた。ギイッと、錆びついた音と共に扉が開け放たれる。まさか、こんな世捨て人みたいな母さんを尋ねてくる人間がいるのか。

 俺も扉に向かって構える。腰を落とし、足も異形の形へと姿を変えていつでも飛び掛かれるように力を籠める。

 「困ったわね、滅多なことはないと思っていたのだけれど。まさか、こんな風に無理やり押し入る化け物がいるなんて想定外だったわ」

 扉を開け、入ってきたのは和服に身を包んだ女性だった。肩まである髪は漆のように艶やかで、顔立ちは日本人形のように美人と華憐さを両立していると言ってもいい造り。けれど、どこかその顔は感情に乏しいように見えた。俺とケイを前にしても、その表情に緊張は感じられない。

 「……あんた、何者だ」

 「その質問はむしろこちらのセリフよ。払﨑の結界を踏み越えて、まさかこんなところまで入り込めるやつがいるなんて思いもしなかった」

 「結界……そうか、あの違和感は結界じゃったか。なるほど、フルオートで視閃を走らせていたのが仇になったとはのう。迂闊じゃった、もっと慎重にことを進め」

 ケイが言い終わる前にいきなり彼女は膝から崩れ落ちた。咄嗟の出来事に、俺は彼女の身体を支えることが精々だった。これまで不遜な態度を貫き、あまつさえ魔女狩りを生き延びたとまでのたまうケイが――やられた?

 「ごめんなさいね、これでも結構臆病なのよ。何をしてくる相手か分からない以上、先手を打つというのが最善の手だとは思わない?」

 「俺は、大したことないってか」

 「そうは言わないわ。貴殿が何者か分からない以上、警戒度は同じくらい。より隙がある方を先に叩いただけ」

 「そうか、よ!」

 ズンと、重い衝撃がアパート全体を揺らす。これで住民が大勢住んでいれば立ち退きものの苦情が入るところだ。幸い、このアパートには母さんしか住んでいない。俺が多少力を使っても、文句はあるまい。馬の蹄が床を力強く蹴りつけ、俺は前に出る。狭い建物の中とはいえ、直線で距離を詰めればどうにかなるはず――


 「境界術――《冴霧》」

 

 正面、飛び掛かっていく先にいた術師が涼しい顔で指印を結ぶ。すると突然目の前に見えない壁ができ、俺は顔面を強く打ち付けた。飛び出した勢いに、衝撃は比例する。強い力、早い速度で突進すればその分だけ返ってくるダメージも大きくなる。頭の中で衝撃が無作為に走り回り、俺は身体の自由を失う。

 宙に、鮮血が散った。

 「がっ、か……!?」

 グルンと世界が逆さまになっていく。意識が溶けるように消えていき、俺は底なしの闇の中へと突き落とされていく。

 深く、たた深くへと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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