第8話 帰らない場所
化生にとって、人間とは何だろうか。巡る魂を持つ妖狐である魔孤魅にとっては一言で語るにはあまりにも長く人間を見過ぎていた。脆弱で、すぐに争い、恐怖から同族である人間同士での諍いが絶えない。
愚かだと、そう言えるのかもしれない。
あるいは他の化生たちであれば散々嘲笑し、そう吐き捨てるのだろう。
だが、今目の前の牢の中で震える懸命の姿を見て、魔孤魅は人間は愚かで取るに足らない存在だとは一蹴することはできなかった。
(情……か)
クルクルと九本の尾を弄びながら、魔孤魅はおずおずと立ち上がる。懸命とケイのやり取りを、彼女はずっと見守っていた。口出しするつもりは、端からない。どう転ぶにせよ、今日が間違いなく懸命にとっての転換点になる日だということはこの魔女が現れてからは分かっていた。
人間……例えそうでなくともどんな存在であったとしても。
生きているなら、そんな瞬間、そんな日は必ず誰にだって訪れるものだと魔孤魅は知っている。
思えば、過去何度も討ち取られた日はそんな予感があった。
過去を思うと、少しだけ懐かしい気持ちになる。化生に老いも若いもあったものではないが、当時はまだ魂としては若かったということだろう。
魔孤魅とて、血気盛んだったのだ。
この肉体の自我はもう、すでに生まれた時の人間のものではない。九尾の転生者であることを、この肉体は良しとした。だからこそ、魔孤魅はこの身体の主導権を握っているわけなのだが。
おずおずと立ち上がり、軽く身体を動かす。固まった関節が軋む音がして、張った筋肉がひび割れていくように血が廻り始めた。目を閉じ、全身を意識する。五体のどこに何があり、妖力が廻るイメージを全身に澄み渡らせていく。
瞼を開けると、懸命は未だ牢の中にいた。
足に根が張り、そこに根付いているようにも見えた。
「……ダメか」
ケイの独白が魔孤魅の耳にも聞こえた。恐らく懸命の耳には届いていないだろうその言葉には、期待と悲哀が滲んでいることが感じられる。
大妖怪である魔孤魅の目から見ても、刃の魔女を名乗ったケイが並みの人間とはまるで違う存在であることは見れば分かる。そういう風に、魔孤魅の視界にはケイが映っているのだ。ケイの中にあるものは、およその普通の人間のものではなかった。なるほど、確かに魔女を名乗るのも頷ける――同類だ、と。
だが、それはケイという魔女の本質ではないだろう。いかに魔術や妖術に精通していたとしても、それはスペックでしかない。
魔孤魅の目を以てしても、ケイの本質は測りかねる。
だからこそ、今彼女が立ち上がったのは他ならぬご近所さんのために他ならない。
「そこな魔女よ」
「なんじゃ、起きていたか……して、今になってどうした。やはりこの小僧を連れれていくのは考え直せとでも言いたいのか?」
「キヒヒ……そうではないさ。まあ、ちょっとキャラが被っているお主に連れていかれるというのは思うところがないわけでもないが」
「なんだか棘がある物言いじゃが……違うというなら、何じゃ」
「いや、ただの老婆心というやつさ。懸命を――頼む」
ケイの訝し気な視線に、魔孤魅はやはり懐かしさを覚えた。
かつて魔孤魅と相対した人間は皆こんな顔で彼女を見ていた。異質で、異常で、恐ろしい怪物を見る目。けれど、外の世界の今をそこまで知っていない彼女にあってももう化生や妖怪たちの時代でないことは分かる。
やはり、この魔女は――
魔孤魅は全身に妖力を漲らせる。力まずに、ただ呼吸し血を巡らせていく感覚だ。ギシギシと格子が軋み、空気が震えて狭い穴の中は小さな嵐が巻き起こっているようにも見えた。
「ッ、おい化け狐!? 何の真似だ!」
鳳蝶はヒビの入った薙刀を気休めだとしても構えた。実のところ、この看守長と魔孤魅がことを構えたことは一度としてなかった。せいぜいが牽制し合い、挑発し合う程度。鳳蝶とて、張間の人間である以上それなりに戦えるという自負はある。
しかし相手は――大妖怪、九尾の妖狐。
異邦の魔女によって獄卒は切り伏せられ(としか形容できない)、得物は半ば使い物にならず。
見上げた矜持だと、魔孤魅は思う。口先ばかりの人間など、腐るほど見てきた。だからこそだろうか、懸命と同じく鳳蝶にもまた少しばかり情が沸いている自分をおかしく思う。
深月洞は牢獄としては勝手がいい場所だ。人外を相手取るにあたって、地の利は必須だと言える。加えて、洞窟という場所は多くの神話や伝説で語られているように怪物たちの住処であるのと同じくらい封印場所としての適性が高い。
まさに、捉えるにはこれ以上にないくらいの好条件の場所。
だが、所詮はその程度の話でしかない。
魔孤魅の五体が、にわかに姿を変じ始める。人の顔だったものは、今や狐の横顔へと変わり、口元からは鋭い犬歯が覗く。手足もまた獣の五体へと置き換わり、鋭い爪が大地を穿っている。まさに狐そのものの姿、唯一違う点があるとすれば尾が九本あるところだろうが、そんなことがまるで気にならないほどに――巨大な身体。
大入道……とまではいかないにしても、その身体は牢には収まらなくなりつつあつ。格子を軋ませ、あちこちにひび割れが生じている。
「ま、魔孤魅……何、して」
「何、時が来ただけのことよ。子守りの時間は終わりじゃ」
顔を上げた懸命と視線が交差する。まだ、その瞳には迷いが浮かんでいた。人間は安寧を求める生き物だ。いや、それは化生も同じかもしれないが。
ここにいれば大丈夫。
多少不自由であっても、外に出るよりはマシに違いない。
懸命の心の中が透けて見えるようだった。殺されるのは誰だって願い下げだ、転生すると言っても、魔孤魅だって好んで殺されたいとは思わない。けれど、時に心は死よりも恐ろしい恐怖を抱えている。
本当は自由になれるはずなのに。
本当はそんな運命なんて退けられるはずなのに。
ならばこそ、母親顔をして彼を見守り続けた者としての役割を果たすときは今だ。窮屈な牢の中、「喝!」と低い声で吠える。たちまち格子はひび割れ、砕けていく。破砕した欠片は魔孤魅の妖気に反応し霊子と共に蒼い焔を上げながら散っていく。ブルブルと身震いする姿は水に濡れた犬を思わせるが、こんな巨大な犬は外の世界にだっていやしない。
一歩踏み出せば、魔孤魅はあっさりと牢の外に出ていた。
かくも容易く。
看守長……鳳蝶もまた、ただこの様子を見守るより他なかった。今の状態は九尾の妖狐である魔孤魅本来の獣の姿だ。いくら鳳蝶が手練れだと言っても、そのひが 化生にとって、人間とは何だろうか。巡る魂を持つ妖狐である魔孤魅にとっては一言で語るにはあまりにも長く人間を見過ぎていた。脆弱で、すぐに争い、恐怖から同族である人間同士での諍いが絶えない。
愚かだと、そう言えるのかもしれない。
あるいは他の化生たちであれば散々嘲笑し、そう吐き捨てるのだろう。
だが、今目の前の牢の中で震える懸命の姿を見て、魔孤魅は人間は愚かで取るに足らない存在だとは一蹴することはできなかった。
(情……か)
クルクルと九本の尾を弄びながら、魔孤魅はおずおずと立ち上がる。懸命とケイのやり取りを、彼女はずっと見守っていた。口出しするつもりは、端からない。どう転ぶにせよ、今日が間違いなく懸命にとっての転換点になる日だということはこの魔女が現れてからは分かっていた。
人間……例えそうでなくともどんな存在であったとしても。
生きているなら、そんな瞬間、そんな日は必ず誰にだって訪れるものだと魔孤魅は知っている。
思えば、過去何度も討ち取られた日はそんな予感があった。
過去を思うと、少しだけ懐かしい気持ちになる。化生に老いも若いもあったものではないが、当時はまだ魂としては若かったということだろう。
魔孤魅とて、血気盛んだったのだ。
この肉体の自我はもう、すでに生まれた時の人間のものではない。九尾の転生者であることを、この肉体は良しとした。だからこそ、魔孤魅はこの身体の主導権を握っているわけなのだが。
おずおずと立ち上がり、軽く身体を動かす。固まった関節が軋む音がして、張った筋肉がひび割れていくように血が廻り始めた。目を閉じ、全身を意識する。五体のどこに何があり、妖力が廻るイメージを全身に澄み渡らせていく。
瞼を開けると、懸命は未だ牢の中にいた。
足に根が張り、そこに根付いているようにも見えた。
「……ダメか」
ケイの独白が魔孤魅の耳にも聞こえた。恐らく懸命の耳には届いていないだろうその言葉には、期待と悲哀が滲んでいることが感じられる。
大妖怪である魔孤魅の目から見ても、刃の魔女を名乗ったケイが並みの人間とはまるで違う存在であることは見れば分かる。そういう風に、魔孤魅の視界にはケイが映っているのだ。ケイの中にあるものは、およその普通の人間のものではなかった。なるほど、確かに魔女を名乗るのも頷ける――同類だ、と。
だが、それはケイという魔女の本質ではないだろう。いかに魔術や妖術に精通していたとしても、それはスペックでしかない。
魔孤魅の目を以てしても、ケイの本質は測りかねる。
だからこそ、今彼女が立ち上がったのは他ならぬご近所さんのために他ならない。
「そこな魔女よ」
「なんじゃ、起きていたか……して、今になってどうした。やはりこの小僧を連れれていくのは考え直せとでも言いたいのか?」
「キヒヒ……そうではないさ。まあ、ちょっとキャラが被っているお主に連れていかれるというのは思うところがないわけでもないが」
「なんだか棘がある物言いじゃが……違うというなら、何じゃ」
「いや、ただの老婆心というやつさ。懸命を――頼む」
ケイの訝し気な視線に、魔孤魅はやはり懐かしさを覚えた。
かつて魔孤魅と相対した人間は皆こんな顔で彼女を見ていた。異質で、異常で、恐ろしい怪物を見る目。けれど、外の世界の今をそこまで知っていない彼女にあってももう化生や妖怪たちの時代でないことは分かる。
やはり、この魔女は――
魔孤魅は全身に妖力を漲らせる。力まずに、ただ呼吸し血を巡らせていく感覚だ。ギシギシと格子が軋み、空気が震えて狭い穴の中は小さな嵐が巻き起こっているようにも見えた。
「ッ、おい化け狐!? 何の真似だ!」
鳳蝶はヒビの入った薙刀を気休めだとしても構えた。実のところ、この看守長と魔孤魅がことを構えたことは一度としてなかった。せいぜいが牽制し合い、挑発し合う程度。鳳蝶とて、張間の人間である以上それなりに戦えるという自負はある。
しかし相手は――大妖怪、九尾の妖狐。
異邦の魔女によって獄卒は切り伏せられ(としか形容できない)、得物は半ば使い物にならず。
見上げた矜持だと、魔孤魅は思う。口先ばかりの人間など、腐るほど見てきた。だからこそだろうか、懸命と同じく鳳蝶にもまた少しばかり情が沸いている自分をおかしく思う。
深月洞は牢獄としては勝手がいい場所だ。人外を相手取るにあたって、地の利は必須だと言える。加えて、洞窟という場所は多くの神話や伝説で語られているように怪物たちの住処であるのと同じくらい封印場所としての適性が高い。
まさに、捉えるにはこれ以上にないくらいの好条件の場所。
だが、所詮はその程度の話でしかない。
魔孤魅の五体が、にわかに姿を変じ始める。人の顔だったものは、今や狐の横顔へと変わり、口元からは鋭い犬歯が覗く。手足もまた獣の五体へと置き換わり、鋭い爪が大地を穿っている。まさに狐そのものの姿、唯一違う点があるとすれば尾が九本あるところだろうが、そんなことがまるで気にならないほどに――巨大な身体。
大入道……とまではいかないにしても、その身体は牢には収まらなくなりつつあつ。格子を軋ませ、あちこちにひび割れが生じている。
「ま、魔孤魅……何、して」
「何、時が来ただけのことよ。子守りの時間は終わりじゃ」
顔を上げた懸命と視線が交差する。まだ、その瞳には迷いが浮かんでいた。人間は安寧を求める生き物だ。いや、それは化生も同じかもしれないが。
ここにいれば大丈夫。
多少不自由であっても、外に出るよりはマシに違いない。
懸命の心の中が透けて見えるようだった。殺されるのは誰だって願い下げだ、転生すると言っても、魔孤魅だって好んで殺されたいとは思わない。けれど、時に心は死よりも恐ろしい恐怖を抱えている。
本当は自由になれるはずなのに。
本当はそんな運命なんて退けられるはずなのに。
ならばこそ、母親顔をして彼を見守り続けた者としての役割を果たすときは今だ。窮屈な牢の中、「喝!」と低い声で吠える。妖気が載せられた遠吠えはたちまち格子にひびを入れ、砕けていく。破砕した欠片は魔孤魅の妖気に反応し霊子と共に蒼い焔を上げながら散っていく。ブルブルと身震いする姿は水に濡れた犬を思わせるが、こんな巨大な犬は外の世界にだっていやしない。
一歩踏み出せば、魔孤魅はあっさりと牢の外に出ていた。
かくも容易く。
看守長……鳳蝶もまた、ただこの様子を見守るより他なかった。いっそ呆気に取られていると言ってもいい。今の状態は九尾の妖狐である魔孤魅本来の獣の姿だ。いくら鳳蝶が手練れだと言っても、その彼我の差は歴然である。
「さて、懸命。これを見ても、まだ外に出るのは怖いか」
「……あんたは」
言葉に詰まる。震える喉をどうにか動かし、声を振り絞った。
「強いから、そんなことが言えるんだ」
「そうじゃな、わっちは強い。だが、そんなわっちも今まで何度も仕留められてきた。そんなわっちが、ただ強いだけとどうして言える?」
「それは」
「何、難しく考える必要はない。よいか懸命、母からの最後の教えじゃ。今は勝てなくてもよい、勝負は最後に笑っていたヤツが勝ちなんじゃ」
まるで人の言葉のように、化生は語る。誇らしく、揺るぎなく。
……本当は冷たく突き放すつもりだった。獅子は我が子を尖刃の谷に突き落とすと言う。狐も似たようなものかもしれないが、結局は最後には情けが顔を出してしまった。
やはり狐に、獅子の真似事は無理があるらしいと苦笑する。まったく、子を育てるというのはなかなかに難しい。
そして魔孤魅は、ケイに同じくもうこの場に用はないと地響きを上げながら洞窟を進んでいく。わずかに残っていた化生たちもいたが、おっとり刀で駆け付けた化生たちは皆一様にドン引きしていた。皆魔孤魅が歩くたびに川が割れるように道を開ける。あんなものに睨まれてはひとたまりもないだろう。有象無象の化生ごときでは腹の足しにもなるまい。
魔孤魅の背中が、あっという間に霞の向こうに消えていく。瞬きのうちに、洞窟の中は普段の静寂が戻りつつあった。変化というものはいつだって突然だが、静寂もまた変わりなくそこにはある。
自分だけ、置いていかれたような気分になったのは人生で初めてのことだった。世界は常に変わり続けている、普遍であるということは本来ありえない。だから、この牢獄の中にいれば変わらずに済むと思っていた。
思っていたのに。
「もう、戻れないんだ……」
その独白は、自分に言い聞かせるような響きだった。
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