第9話 契約の代償

ソウルの夜は雨音に包まれていた。湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、街全体が重々しく沈んでいるようだった。ルナはソ・イネから渡されたUSBドライブをコートの内ポケットに忍ばせながら、高級ホテルの一室に向かっていた。静寂に包まれた廊下はまるで異世界への入口のように不気味だった。


部屋のドアを開けると、薄暗い照明の中にソ・イネのシルエットが浮かび上がった。彼女は窓の外を見つめ、雨粒が窓を叩く音に耳を傾けていた。ルナが入ってくると、イネはゆっくりと振り返った。


「遅かったわね、ヘジン。」


イネの声は冷たく、そこには何か挑発的なものが込められていた。ルナはその言葉に応えることなく、静かに部屋の中央へと進んだ。二人の間に張り詰める緊張感が、まるで雷のように空気を震わせる。


「本当にこれがすべてなの?」


ルナはポケットからUSBドライブを取り出し、イネの目の前で軽く振った。イネの目が一瞬だけそれに向けられたが、すぐに再びルナに戻る。


「ええ、あなたが求めていた全てがその中にある。ジェハン財閥の裏の実態、あなたの父を裏切った証拠…すべて。」


「本当に?」


ルナはイネの目をじっと見つめた。その目には、一瞬の動揺が見えた。それは、まるで心の奥底に隠していた何かが引きずり出されるのを恐れているかのようだった。


「何を疑っているの?」


イネは微笑みを浮かべたが、その笑みは氷のように冷たい。ルナはゆっくりとUSBドライブを手に持ち、イネの目の前でそれを握りしめた。


「あなたがこれを本当に私に渡すつもりだったなら、なぜ今まで黙っていたの?」


「タイミングを待っていただけよ。あなたがその真実を受け入れる準備ができているかどうか。」


「その準備?それとも私を試していたの?」


ルナの声は冷たく響いた。彼女はイネの背後の気配に目を光らせた。イネは何かを隠している。それはただの秘密ではない、もっと危険で、もっと深い闇だ。


突然、部屋の空気が変わった。ルナは瞬時にUSBドライブをポケットにしまい、周囲の異変に気づいた。どこかでドアが開く音がした。背後の暗闇に人の気配が迫っている。ルナは反射的に身構えた。


「何を…」


その瞬間、複数の男たちが部屋に侵入してきた。彼らは黒いスーツに身を包み、無言でルナに近づいてくる。ルナは後退しながら、すぐにイネに視線を向けた。イネは動じることなく立っていた。


「あなた…!」


「ごめんなさい、ヘジン。」


イネはゆっくりとルナに背を向け、窓の外を見つめた。彼女の背中には、どこか冷酷さと悲しみが入り混じっているようだった。


「あなたがここまでやるとは思わなかった。でも、これはあなた自身のためなの。」


「私のため?これは罠なのか?」


ルナは鋭く言い放ち、周囲を警戒した。男たちは彼女を囲むようにして近づいてくる。逃げ場はない。しかし、ルナの心には奇妙な冷静さがあった。彼女はすでにこの瞬間を覚悟していたのかもしれない。


「ジェハン財閥の秘密を暴くことは容易ではない。彼らはあなたを狙っている。そして、私も…」


イネの言葉が途切れると同時に、ルナは彼女に向かって叫んだ。「裏切り者!」


だがその瞬間、イネは振り返り、ルナに向かって何かを投げた。それは小さな銀色のケースだった。ルナは反射的にそれを受け取り、目を見開いた。


「これは…?」


「その中に、本当の鍵がある。」


イネの声は冷静だったが、そこには確かな決意が込められていた。男たちは一瞬動きを止め、状況を見極めるようにしている。ルナは銀色のケースを開け、中の紙片に目を通した。


それは、財閥の裏取引に関する極秘情報と、それを暴くためのパスコードが記されたメモだった。ルナの頭の中で、瞬時にいくつもの考えが交錯する。これは罠か、それとも本当の協力なのか?


「あなたは最初から…?」


「私はあなたを見守っていた。」


イネの目に、わずかな涙が浮かんだ。彼女の口元には微笑が浮かんでいたが、その微笑みは悲しげで、どこか儚いものだった。


「行きなさい、ヘジン。あなたが選ぶ道を。」


男たちが再び動き出す。その瞬間、ルナは反射的に銀色のケースをポケットに押し込み、窓際に向かって駆け出した。イネはルナを見送るように静かに立ち尽くす。


「これが、あなたの選択なのね。」


イネの言葉にルナは振り返らなかった。彼女は窓を開け、冷たい雨の中へと飛び込んだ。ガラスの割れる音が響き、ルナの姿は闇の中に消えていく。


男たちが窓に駆け寄った時には、すでにルナの姿は見えなくなっていた。イネは深く息を吐き、窓の外を見つめ続けた。雨はますます激しくなり、夜の闇に溶け込んでいく。


「これでいいの…?」


イネの呟きは、誰にも聞こえなかった。


---


街の闇の中、ルナは屋根から屋根へと駆け抜けていた。冷たい雨が彼女の体を打つが、彼女の目には確固たる決意が宿っている。手の中に握られた銀色のケース――それがすべてを変える鍵となるか、それとも新たな罠となるか。


「これが終わりじゃない。これからが始まり。」


ルナの目の奥に燃え上がる炎。それは復讐と真実の追求に燃え上がる決意の炎だった。誰が敵で、誰が味方か。すべての謎が絡み合い、新たな幕が今、開かれた。

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