第7話 契約の代償

ルナは、ソ・イネが指定した高級ホテルのラウンジで静かに息を潜めていた。人目を避けるように端の席に座り、周囲の喧騒を観察している。イネが現れるまでの数分が、永遠に感じられるほどの緊張感に包まれていた。彼女はすでに何度かイネと接触し、彼女から提供された情報を使ってジェハン財閥に一歩ずつ近づいていたが、今夜はこれまでとは違う。今夜の交渉が、彼女の復讐の運命を決定づけるものになる。


ルナが持っている情報と、イネの内部からの協力があれば、財閥を崩壊させる計画は現実のものとなる。しかし、問題は、イネがどこまで信用できるのか、ということだ。ルナはこの取引にリスクがあることを承知していたが、もう後には引けなかった。


「遅れたわね、ヘジン。」


静かな声がルナの耳に響いた。彼女が顔を上げると、そこにはスーツ姿のソ・イネが、冷静な表情で立っていた。完璧に整えられた髪と仕草からは、秘書としてのプロフェッショナリズムが漂っているが、その目にはどこか冷たい光が宿っていた。


「用心していただけよ。」ルナは淡々と答え、隣の席を示した。「座ったら?」


イネは微笑んで、ルナの勧めに従った。彼女の動きは慎重で、周囲に対する警戒心を決して忘れていない。財閥に対して裏切りを働いている彼女にとって、常に注意を怠ることはできない状況だ。


「話があるんでしょう?」イネは、まっすぐにルナを見つめた。彼女の言葉には柔らかさはなかったが、その裏には鋭い知性が感じられた。


「そうよ。財閥の内部から、もっと確実な情報が必要。あなたが持っているものをすべて差し出してもらうわ。」


ルナは、できるだけ感情を抑えた声で言った。イネは微かに頷いた。


「あなたは覚悟があるのね。けれど、その覚悟がどれほどの代償を伴うか、わかっているのかしら?」


イネの問いかけには、挑発的なニュアンスが含まれていた。彼女はルナを試している――本当にここまで来たのか、それともまだ迷いがあるのか。


「私は、すべてを失った人間よ。代償なんて、最初から覚悟しているわ。」ルナの声は冷たかった。彼女は、復讐のために自分がすでにどれだけのものを犠牲にしてきたかをよく知っていた。後戻りはできない。


イネはその答えに満足したように微笑んだ。そして、バッグから小さなUSBドライブを取り出し、テーブルの上に置いた。


「ここには、ジェハン財閥の不正取引の一部が含まれている。君の父が見つけたものよりももっと大きなものだ。これがあれば、財閥を揺るがすことができる。」


ルナはそのドライブをじっと見つめた。これが彼女の求めてきた「鍵」だ。この情報を手にすれば、ジェハン財閥を倒すための準備は整う。しかし、その背後にある陰謀の深さに、彼女は一瞬だけ躊躇した。


「信じていいのね?」


ルナは一歩踏み込んだ問いを投げかけた。イネは静かに頷いた。


「私が何を失ったか、あなたも知っているはずよ。私も復讐のために生きている。この情報で財閥を倒すことが、私にとっても救いになるの。」


その言葉には嘘偽りがなかった。イネもまた、ジェハン財閥に家族を奪われた一人だった。彼女の背負う痛みはルナと同じ。だからこそ、彼女の協力を得ることができる。しかし、イネの目的がどこまで一致しているのかは、まだ完全には分からなかった。


「ありがとう、イネ。」


ルナはUSBドライブを手に取り、彼女の言葉に礼を言った。イネは薄く微笑んだが、その目は冷たさを失わなかった。


「いいのよ、ヘジン。私たちはお互いに利用し合う立場なんだから。気を抜かないで、あなたがそのデータを使えば、財閥もあなたを黙って見過ごすわけにはいかなくなるわ。」


ルナはその言葉を深く胸に刻んだ。確かに、これからの戦いは今まで以上に厳しいものになるだろう。しかし、彼女は覚悟していた。父のため、そして自分自身のために。


「また連絡するわ。」ルナはそう言って立ち上がり、イネに背を向けた。


イネもまた、立ち去るルナを見つめながら、静かに席を立った。彼女の心の中にもまた、消えない痛みと怒りが渦巻いていたが、その裏には、何か隠された計算があるかのようだった。


---


ルナはホテルの外に出ると、夜の風が彼女の髪を揺らした。手の中に握りしめたUSBドライブが、まるで重みを持っているかのように感じられる。このデータが全ての鍵だ。しかし、イネの言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。


「私たちはお互いに利用し合う立場…」


ルナはこの戦いが誰にとっても安全ではないことを理解していた。ジェハン財閥との戦いは、復讐であると同時に、生き残りをかけた戦いだ。誰も信用できない世界で、唯一の頼りになるのは、自分自身の覚悟と知恵だ。


「全てを暴く…そのために。」


ルナはそう心に誓い、次の行動を決断した。

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