第5話 影の対峙

ルナは、カン・テジュンのオフィスの暗闇の中で動きを止めた。目の前に立っている男は、彼女がこれまでの調査で何度も見てきた人物。ジェハン財閥の後継者、カン・テジュン。だが、今目の前に立つ彼の表情は、どこか冷たく、まるで彼女が来ることを予期していたかのように見えた。


「待っていたぞ、ルナ。」


テジュンは静かに口を開く。彼の声には焦りや驚きなど一切感じられない。むしろ、自分のオフィスに潜入してきた彼女に対してさえ、落ち着いた冷静さが漂っている。ルナは一瞬、その余裕に不安を覚えた。


「私を待っていた?」ルナは冷静さを保ちながらも、すぐに反撃の準備をする。彼女の心臓は速く脈打っていたが、顔には微塵も動揺を見せない。


テジュンは薄く笑った。「君が『青い月』を手に入れたことは知っている。そして、ここに来た理由もわかっている。ジェハン財閥を潰すための証拠を探しに来たんだろう?」


ルナは表情を変えずに彼を見つめた。カン・テジュンがこれほどまでに自信を持っている理由は何なのか?彼がルナの動きをここまで予測していたのは単なる偶然ではないはずだ。しかし、彼女にはまだわからないピースが多すぎた。


「それがわかっているなら、どうして警備を呼ばないの?」ルナは静かに問いかけた。「私を捕まえるチャンスは今しかないのに。」


テジュンは肩をすくめ、デスクの端に軽く腰掛けた。「警備?君のような相手に、無駄な騒ぎを起こすつもりはないよ。それに、君を捕まえることが目的じゃない。むしろ、君にもっと知ってもらいたいことがある。」


「知ってもらいたいこと?」ルナは疑念を抱きつつも、相手の言葉に耳を傾けた。彼が何を言おうとしているのか、その意味を探ろうとしていた。


テジュンはゆっくりと話し始めた。「君のことはずっと追ってきたよ、ルナ。いや、キム・ヘジン。君の家族がジェハン財閥に何をされたのか、そして君がどうやってここまでたどり着いたのかもすべて知っている。」


その瞬間、ルナの心臓は一気に跳ね上がった。彼が彼女の本名、キム・ヘジンを知っているという事実は、予想外の一撃だった。家族を失った時から隠してきたその名前を、この男が知っているとは…。


「驚いたかい?」テジュンは彼女の反応を楽しむように笑みを浮かべた。「君が復讐を誓って、財閥に近づいてきたことはわかっていた。だが、そのために君が何を犠牲にしたかもね。」


ルナは瞬間的に距離を取った。彼が何を知っているのか、どこまで真実に近づいているのか、わからないままでは動くことができない。だが、同時に彼女の中には怒りが燃え上がっていた。家族を奪い、彼女を孤児にした張本人が、今目の前にいる男――カン・テジュン。その確信が強まっていく。


「何を知っているというの?」ルナは低い声で問いかけた。その声には今まで感じたことのない冷たさが混じっていた。過去に彼女が経験した絶望が、その言葉に重みを与えていた。


テジュンは一瞬視線を落とし、ゆっくりと立ち上がった。「君の父親は、ジェハン財閥の内部で何かを見つけてしまったんだ。それが、彼が命を落とす原因となった。」


その言葉にルナの視線が鋭くなった。彼女がずっと追い求めていた真実が、今、目の前にあるかもしれない。しかし、テジュンの語る真実がどれだけ信じられるのか、彼女はまだわからなかった。


「父が…何を見つけたの?」


テジュンは静かに彼女の問いに答えた。「ジェハン財閥の裏で行われていた、違法な取引だ。海外の武器商人との裏取引や、巨大な裏金の流れ…。君の父はそれを突き止め、正義のためにそれを暴こうとした。しかし、財閥はそれを許さなかった。彼を消すことで、すべての証拠を消し去ったんだ。」


その言葉を聞いた瞬間、ルナの体に電流が走ったかのように緊張が走った。父が命を賭けて暴こうとしたもの――それがジェハン財閥の違法取引だったというのか。


「信じられるわけがない…」ルナは震える声で言った。彼女の中で、怒りと絶望が交錯していた。もしそれが真実だとすれば、彼女がこれまで行ってきたすべての行動が、ただの復讐ではなく、正義のための戦いだったことになる。しかし、彼女はそれを信じることができなかった。


「私が嘘をついていると思うのか?」テジュンは冷たく微笑んだ。「もちろん、すべてを君に教えるつもりはない。だが、君が知るべき真実はまだ他にもある。ジェハン財閥がどれほどの影響力を持ち、どれだけの人々を犠牲にしてきたか――それを知れば、君はもっと強くなる。」


その言葉はまるで誘いのようだった。テジュンはルナを、いや、キム・ヘジンを自分の側に引き込もうとしているようだった。彼女の復讐心を利用し、自分の目的のために。


ルナは目を細め、冷静に彼を見つめ返した。「あなたが何を企んでいるのか知らないけど、私はあなたの手には乗らない。あなたたちのやり方は、私が一番よく知っている。家族を奪った者たちに、私は屈しない。」


テジュンはその言葉を聞いて、ゆっくりと歩み寄った。「屈しない?君は今、私の手の中にいるんだ。いつでも警備に連絡できるし、君をこの場で終わらせることだってできる。だが、私はそれをしない。なぜだかわかるか?」


ルナは答えなかった。彼女の心の中には、テジュンの言葉に対する警戒心がますます高まっていた。


「君が必要なんだ、ルナ。君のスキル、君の知恵、そして君の憎しみ。君の力を借りれば、ジェハン財閥をもっと強くすることができる。財閥を完全に支配し、君の復讐も叶えてやる。」


その瞬間、ルナの心は静かに決まった。彼の誘いを断ることが彼女にとって唯一の選択肢だった。


「私は、あなたの手先にはならない。」


その一言とともに、ルナは素早く手を動かした。懐から小さな閃光弾を取り出し、それをテジュンの足元に投げつける。眩しい光が部屋を包み、彼は目を閉じ、体勢を崩した。


その間に、ルナは窓際へと飛び出し、一気にガラスを割って外へと飛び降りた。ビルの外壁を滑り降りながら、彼女の胸には強い決意が宿っていた。テジュンが何を企んでいようとも、彼女は自分の信念を曲げることはない。


「ジェハン財閥を倒すのは私だ…。」


その言葉が彼女の心の中で反響しながら、ルナは闇に溶け込むように消えていった。


---


部屋の中で目を覚ましたテジュンは、まだ微かに残る閃光の後を感じながら、笑みを浮かべた。「逃げられると思っているのか…ルナ。」


彼は携帯を取り出し、ある番号に電話をかけた。


「始めるぞ。彼女が私の元に来るのは時間の問題だ。」


電話の向こうから応じる声が響く。カン・テジュンの背後には、さらに大きな陰謀が渦巻いていた。

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