第17話 影の糸を紡ぐ者

 剣闘士の一件から数週間。ミストリアの石畳に日常という薄い膜が張り戻されていたが、アリア・グランギニョルの執務室では、静かな分析が進められていた。彼女の目の前には、シオに関する詳細な報告書――剣闘士治療後の異常なまでの消耗度と回復速度に関する医療記録、任務後の精神状態の所見、そしてルームメイトであるサラスからの日常の細かな観察記録――が並べられている。


 静寂が支配するアリア・グランギニョルの執務室。磨き上げられたデスクには、数枚の紙が広げられていた。それらはミストリアの治癒士の少年に関する記録の束だった。アリアは細い指で報告書の一節をなぞりながら、紫色の瞳に怜悧な光を宿す。


「剣闘士の治療…あれほどの重傷を負いながら、コーリ君の消耗は常軌を逸していた。しかし、その後の精神的、肉体的回復速度もまた異常と言うべき早さね…」


 医療記録には、治療直後のシオの極度の疲弊ぶりと、まるで何事もなかったかのように数日で平時の状態に戻ったという、矛盾とも取れるデータが記されていた。アリアは眉をひそめる。単に魔術回路が優秀であるという凡庸な説明では、この現象は霧の中に消える。彼の中には、まだアリア自身も把握しきれていない何かが潜んでいるという確信が、彼女の中で静かに形を取り始めていた。


 次にアリアが手に取ったのは、シオのルームメイトであるサラスからの報告書だった。半ば強制的に提出させたそれは、シオの日常を克明に記していた。時折見せる虚ろな表情、隠れるように甘い菓子を口にする姿、特定の言葉や状況に過敏に反応する過去のトラウマを匂わせる言動。アリアはそれらを丹念に読み解き、彼の精神構造の複雑さと、そこに潜む脆さ、そして利用可能な隙を慎重に探り出す。


「フフ…まるで気難しい猫ね。しかし、その気難しさこそが、手懐けた時の価値を高めるというものよ」


 アリアは静かにベッケンを呼び出した。重厚な扉が開き、ミストリアの古株である大柄な傭兵が姿を現す。


「ベッケン、コーリ君をここに連れてきた経緯、そして奴隷商の馬車での一件について、改めて詳細を聞かせてもらえるかしら」


 アリアの問いに、ベッケンはよどみなく答える。手錠を紙くずのように破壊し、怯むことなく戦闘に参加したというシオの姿。それは、彼が単なる治癒士の枠に収まらない、ある種の戦闘能力と覚悟を秘めていることを示唆していた。


「あいつは…何かを隠している。大きな喪失感を抱えながら、それを力に変えようとしているのか、あるいはそれに縛られているのか…」


 ベッケンの言葉は、アリアの確信をさらに深めた。ただの治癒士ではない。その潜在能力、そしてそれを引き出すための鍵は何なのか。アリアの思考は、冷徹なまでに回転を速める。


 場面は、アリアの執務室からサラスの元へと移る。彼女は相変わらず相変わらず渋々といった様子で、しかしアリアの追求から逃れられないことを悟り、シオの日常を報告していた。


「夜中にうなされてるみたいだし…なんか、特定の言葉にビクッとしたりするのよ。でも…時々、なんていうか…すごく優しい顔する時もあって…あたしが作ったお菓子とか、…あ、いや、あいつが勝手に持ってきたお菓子とか、美味しそうに食べる時は、ちょっとだけ…普通のガキみたいなんだけどね」


 サラスの言葉の端々から、シオが抱える心の闇と、それとは裏腹に渇望しているであろう安心感や日常の断片が垣間見える。アリアはそれらを注意深く拾い上げ、シオをコントロールするための糸口として認識する。子供としての脆さ、そして温もりへの渇望。それらは、アリアにとって格好の楔となり得るのだ。


 分析を終えたアリアの瞳には、明確な意志が宿っていた。彼女は、シオをミストリアの暗部に本格的に引き入れることを決断する。この稀有な駒は、表舞台の治癒任務だけではあまりにも惜しい。その特異な才能と精神構造は、より深く、より暗い場所でこそ真価を発揮するはずだ。だがまだそれは先の話。


 アリアはシオを呼び出した。やがて、控えめなノックと共に、シオが執務室に姿を現す。その表情には、まだ剣闘士の一件を引きずっているかのような疲労の色と、アリアに対する警戒心が滲んでいた。


「シオ君、先日の剣闘士の件、ご苦労だったわね。君の治癒能力には、改めて感嘆させられたわ」


 アリアは、普段よりもいくらか柔らかな声色で語りかける。しかし、その言葉の裏には、抗うことのできない圧力が潜んでいた。


「いえ…当然のことをしたまでです」


 シオは俯きがちに答える。彼の声には、まだ微かな疲労が残っていた。


「謙遜する必要はないのよ」

 アリアは優雅に微笑む。


「ミストリアにとって、君のような存在は替えがたい。君の力は、多くの者を救い、そして我々の目的を達成するために不可欠なものなの」


 その言葉に、シオの瞳が一瞬、湖面に石を投げ入れたように揺らぐ。何かでありたい、必要とされたい。その渇望が、彼の心の奥底で疼いたのをアリアは見逃さなかった。


「君のこれまでの苦労は…サラスからも少し聞いているわ。大変だったでしょうね」


 アリアは、まるで全てを理解しているかのような口調で続ける。


「ミストリアは、君のような才能を正当に評価し、そして…守る場所でありたいと思っているの」


 そう言いながら、アリアはデスクから静かに立ち上がり、シオの傍へと歩み寄る。そして、労うように彼の肩にそっと手を置こうとした。その瞬間、シオの肩がビクッと硬直し、反射的に僅かに身を引くような反応を見せた。その瞳には、何かが呼び覚まされたかのような、一瞬の怯えが浮かんでいた。


 アリアはその微細な反応を見逃さない。しかし、表情には一切出さず、何事もなかったかのように、今度は言葉だけで包み込むように、彼の背中を軽く撫でるような優しい声音で続けた。


「大丈夫よ、シオ君。ここでは、君が不当に傷つけられることはないわ」


 その計算された温かさに、シオの強張っていた肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。警戒心が完全に解けたわけではない。だが、無意識の内に、アリアという存在に、一種の信頼感のような、母性的な庇護にも似た安心感を抱き始めている。そして彼女が示す庇護のような温かさに、抗いがたい何かを感じていた。


「君が安心してその力を振るえるよう、私たちが全力で支えるわ。君はただ、自分の力を信じて、業務に励んでくれればいいの」


 アリアは、シオの揺れる心を見透かし、彼がミストリアという居場所に安らぎと存在意義を見出すよう、言葉を重ねる。そして、彼の肩からそっと手を離すと、執務室の窓辺へと歩み寄り、外の喧騒を背にしながら続けた。


「けれど、君が持つ治癒の力は、まさに奇跡よ。でもね、ここで真に価値を発揮するためには、それだけでは足りないの」


 その言葉に、シオは顔を上げた。アリアの紫色の瞳が、窓ガラスの反射光の中で静かに、しかし強く輝いている。


「私たちが相手にするのは、一癖も二癖もある貴族たち。彼らの懐に入り込み、信頼を得て、時にはその心を操るためには、力だけでなく知性が必要になる。洗練された教養こそが、君をもっと素敵な、かけがえのない存在へと昇華させるのよ」


 アリアは振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。


「エレオノーラのマナー教育も結構でしょうけれど、あれはあくまで基礎。これから君には、歴史、政治、経済、数術、そして古典文学…その全てを学んでもらうわ。一見、君の仕事とは無関係に思えるかもしれないけれど、これら全てが君という人間を形作り、君の言葉に重みと深みを与える。知識は、君自身を守る、何よりも強固な鎧になるの」


 勉強、という言葉に、シオは目を瞬かせた。これまでの人生で、体系だった教育など受けたことがない。自分の価値は、この治癒の力だけだと思っていた。だが、アリアは違うという。知識が、教養が、自分を守る鎧になる、と。


「心配しなくてもいいわ。ミストリアには、各分野における最高峰の教師がいる。君にはこれから、その全てを吸収してもらう。大変でしょうけれど…きっと、君なら楽しめるはずよ」


 アリアの言葉には、蜜のような甘さと鋼のような強さが混じり合った、不思議な説得力があった。シオの心の片隅で、これまで知らなかった世界への微かな好奇心が、たしかに芽生え始めていた。自分の価値が、この力だけでなく、知識によっても認められるかもしれない。その可能性に、戸惑いながらも、彼は抗いがたい魅力を感じていた。


「君がどこへ出ても恥ずかしくない、素敵な人になるための投資よ。期待しているわ、シオ君」


 アリアの瞳には、シオという駒を、より深く、より確実に手中に収めつつあることへの静かな満足感が浮かんでいた。彼女が示す庇護と期待に、シオは抗う術を持たなかった。

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