第16話

 自室に戻ったシオは、着替える気力もなく、寝台の端に深く腰掛けていた。壁の冷たい石肌に背を預け、膝を抱える。アリア様に指示された休息。だが、頭の中は先ほどの光景、血飛沫、虚無の瞳が繰り返し再生され、安らぎとは程遠い思考の渦に囚われていた。部屋の空気は重く、シオ自身の吐息さえも、その重さを増しているように感じられた。


 ガチャリ、と扉が開く音がして、シオは緩慢に顔を上げた。そこには、一日の会計業務を終えたらしい制服をだらしなく着崩し薄茶色の髪をポニーテールにした小柄な少女が、数冊の分厚い帳簿を小脇に抱えて立っていた。


 彼女の名前はサラス・シューベント、14歳。とてもうざったい僕の同居人ルームメイトだ。自分でいうのもあれだが年頃の男女を同じ部屋で生活させるものではないと思う。アリア様にはすでに何度も直談判はしてはみたがニヤニヤしながら返されるだけであった。


 彼女は少し疲れたような表情で部屋に入り、自分の作業スペースに帳簿をドサリと置く。インクの匂いが微かに漂った。


「ふぅー、疲れたー! 今日もあの上級貴族の賭け金、桁がおかしくて計算大変だったんだから! まったく、金の使い方がなってないっつーの」


 独り言のように言いながら、サラスはシオの方へ視線を向けた。そして、寝台に沈むように座り込み、生気なく壁を見つめているシオの姿を認めると、彼女の口元にいつもの揶揄うような笑みが浮かんだ。


「あれー? シオ君、まだそんなとこで油売ってんの? さっすがミストリア期待の治癒士様は、お仕事が終わったらお昼寝タイムってわけ?」


 軽い足取りでシオに近づき、その顔を覗き込むようにして、わざとらしく煽るような口調で続ける。


「それとも、またどっかの誰かさんみたいに、しくしく泣いてたとか? よーしよし、アタシが慰めてあげよっか?」


 言いながら、悪戯っぽくシオの肩を軽く小突く。普段なら、シオは僅かに眉を寄せたり


「やめて」


 と小さく呟いたり、何らかの反応を示すはずだった。サラスは、その反応を見てさらに揶揄うのを楽しみにしていた。


 しかし、今日のシオは違った。


 肩を小突かれても、彼は微動だにしない。サラスの声が聞こえていないかのように、その視線は虚空を彷徨ったまま。ただ、ゆっくりと瞬きをし、そして、か細い息を吐いただけだった。揶揄いに対する苛立ちも、困惑も、悲しみさえも、その表情からは読み取れない。まるで、心がそこにない人形のようだった。


「……あれ?」


 サラスの揶揄うような笑みが、ぴたりと止まる。予想していた反応がない。いつもの、少し困ったような、あるいは鬱陶しそうな、彼女がいじりがいがあると感じる反応が、全く返ってこない。代わりに目の前にあるのは、深い沼の底を覗き込むような、シオの底なしの疲労と、何か得体のしれない感情の気配だけ。


「……ちょっと、聞いてんの? せっかくこのサラス様が構ってあげようって言ってんのにさぁ」


 彼女は少しムキになって、もう一度シオの肩を揺さぶる。だが、シオは力なく首を横に振るだけで、やはり言葉を発しようとはしない。その瞳はサラスを見ているようで、何も映していないかのようだ。


「……な、何よ……」


 サラスの声から、いつもの自信と軽快さが消える。揶揄う相手からの予期せぬ無反応は、彼女のペースを完全に狂わせた。どう対応すればいいのか分からない。冗談が通じないどころか、まるで壁に話しかけているような感覚。シオの纏う、普段とは明らかに違う重苦しい空気に、サラスは無意識に一歩後ずさっていた。


「……別に、アタシは……」


 何か言い返そうとするが、言葉が続かない。頬が微かに赤らみ、視線が泳ぐ。いつもは自分が優位に立っているはずの同居人の、見たことのない姿に、彼女は確かに狼狽えていた。


 気まずい沈黙が、狭い石造りの部屋に落ちる。帳簿のインクの匂いと、シオが纏う見えない疲労の気配だけが、その場を支配していた。


 § § §


 剣闘士の一件から数週間が過ぎても、シオの心には重い澱が残っていた。だが、ミストリアの日常は待ってはくれない。治癒士としての仕事、所作の訓練、そして貴族たちの前で貼り付ける仮面。目まぐるしい日々の中で、自室は数少ない、仮面を外せる場所だったが、そこには常に先住者であるサラスの存在があった。


 当初の険悪な空気は、多少和らいだとはいえ、決して良好とは言えなかった。部屋のテリトリーは依然として明確で、サラスの領域には帳簿や計算用紙が城壁のように積み上がり、時折インク瓶が危うげに傾いている。彼女は自分の仕事に没頭すると周りが見えなくなるタイプらしく、シオが部屋にいてもまるで空気のように扱うか、あるいは邪魔だとばかりに舌打ちをすることもあった。


「ちょっとシオ! アンタ、またアタシのペンの位置変えたでしょ!」


「……ごめん、落ちそうだったから……」


「勝手に触んないでって言ってるでしょ! 大事な計算中なんだから!」


 サラスの子供っぽい癇癪は相変わらずだったが、以前のような本気の拒絶は薄れていた。シオもまた、彼女の領域を侵さないよう細心の注意を払いながら、石壁に囲まれたこの小さな空間で息を潜めるように過ごしていた。ただ、時折、シオが黙々と部屋の隅や共有スペースを片付けていることにサラスが気づき


「……別に、頼んでないし」

 とぶっきらぼうに言いながらも、まんざらでもないような、少しだけ居心地が悪そうな表情を見せることもあった。


 二人の互いへの観察は、無言のうちに続けられていた。シオは、サラスが膨大な数字と格闘する際の、驚くほどの集中力と、時折見せる計算ミスへの激しい苛立ち、そしてそれを乗り越えた時の密かな達成感に気づいていた。アリア様や他のスタッフには見せない、年相応の、あるいはそれ以上に脆い感情の起伏。そして、隠れて恋愛ものの小説を読みふけり、こっそり甘い焼き菓子を頬張る姿も。


 一方のサラスは、シオの存在そのものが発する奇妙な静けさに慣れ始めていた。彼は必要以上に喋らず、感情もあまり表に出さない。だが、その所作はとても静かで丁寧なのだ。時折、窓のないこの地下室で、まるで遠い空を見上げるかのように、ふっと表情から色が抜け落ちる瞬間があることも、サラスは知っていた。それが何を意味するのかは分からないが、普段の彼とは違う、触れてはいけない深い何かを感じさせるのだった。


「……サラス、これ、いる?」


 シオが声をかけると、サラスは


「なによ、今集中してんのよ!」

 と一瞬だけ鋭く振り返ったが、シオの手にある包みを見ると、赤い瞳をきらりとさせた。


「……別に、いらないって言ったら嘘になるけど……何よ、あんたが食べればいいじゃない。」


 口ではそう言いながらも、その視線は明らかに焼き菓子に釘付けだ。


 シオは小さく息をつくと、包みを彼女の机の端にポンと置いた。


「僕はいらないから。頭使うと甘いもの欲しくなるんでしょ、サラスは。」


「なっ……! べ、別にそんなこと……! でも、まあ、あんたがどうしてもって言うなら、貰ってあげなくもないけど……!」


 サラスはぶつぶつ言いながらも、素早く包みを開け、焼き菓子を一つ口に放り込む。そして、次の瞬間には、先ほどまでの険しい表情が嘘のように緩み、頬を幸福そうに膨らませていた。


「ん〜! これ、美味しいじゃない! あんたにしては気が利くわね!」


 目を細め、子供のように無邪気に喜んでいる。その変わり身の早さと、隠しきれない満足げな様子を見て、シオは思わず口元に笑みを浮かべた。


「……やっぱガキじゃん。」


 ………彼は必要以上に喋らず、感情もあまり表に出さないというのはいささか間違いなのかもしれない。

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