第18話 寝癖と湯気と
休日の朝、シオは誰に言われるでもなく、いつもの時間に目を覚ました。
この部屋は、魔石の恩恵によって常に快適な温度と湿度に保たれている。煌々と灯る照明、蛇口をひねれば流れ出る清浄な水。スラムでの日々を思えば、このミストリアの生活は天国と呼んで差し支えなかった。ただ一つ、この地下深くの居住区画に、決して朝日が差し込むことがないという事実だけが、シオの心の隅に小さな澱のように残っている。
ここミストリアにきて早三か月、嵐のような日々を乗り越えて、サラスとはこうして穏やかな日常という名の港に辿り着いていた。
彼は寝台から静かに身を起こすと、隣のベッドに視線をやった。薄茶色の柔らかな髪が枕の上に散らばり、毛布にくるまった小さな塊が、すうすうと安らかな寝息を立てている。帳簿と向き合っている時の険しい表情はどこにもない、無防備で、年相応に幼いサラスの寝顔。それを見たシオの口元に、彼自身も気づかないほどの微かな笑みが浮かんだ。
彼女の眠りを妨げないよう、抜き足差し足で共有の洗面台へ向かい、静かに身支度を済ませる。そして、部屋の隅に置かれた小さなポットに水を満たし、スイッチを入れた。やがて、ことこととお湯の沸く音と共に、柔らかい湯気が立ち上り始める。シオは棚から小さな缶を取り出し、一つまみの茶葉をポットに落とした。彼女が密かに好んでいる、果実を使った甘い香りの茶葉だ。部屋に満ちていく優しい香りは、シオが仕掛ける穏やかな覚醒の合図だった。
まず、茶葉の香りが眠りの深い場所にいるサラスを、ゆっくりと意識の浅瀬へと誘い出す。毛布の中で
「んん……」
と小さな唸り声がして、塊がもぞりと身じろぎするのを、シオは静かに待った。
頃合いだろう。
シオはわざと少しだけ大きな音を立てて、ハンガーに掛けてあった自分の上着に袖を通す。カチャリ、と腰のナイフホルダーを手入れ道具の隣に置く。
あくまで自分の準備をしているだけという体で、生活音による第二次攻撃を仕掛けるのだ。
効果は、すぐに現れた。
毛布の中から、くぐもった不機嫌な声が響く。
「……うるさい」
作戦成功である。
シオは振り返らない。背を向けたまま、事実だけを淡々と告げる。
「おはよう、サラス。もう起きないと、食堂の焼き立てパンがなくなる」
焼き立ての、ほんのり甘い白パン。それは、この少女の弱点の一つだった。
「……わかってるわよ!」
返事と同時に、ガバッと毛布が勢いよくめくられた。重力に逆らうように四方八方に跳ねた寝癖を頭に乗せたまま、サラスが上半身を起こす。その紅色の瞳はまだ眠気でとろりとしており、機嫌の悪さを隠そうともしない。
「……毎朝毎朝、人の安眠を妨害して……」
そんな彼女に、シオは既に淹れてあった温かいお茶を、黙って差し出した。
サラスは
「……ご丁寧にどうも」
と憎まれ口を叩きながらも、素直にそのカップを受け取る。両手で包み込むように持ち、ふうふうと息を吹きかけてから一口。湯気と共に広がる優しい香りと温かさが、ささくれだった彼女の意識をようやく鎮めていった。
不機嫌ながらも活動を開始したサラスと、シオは共有の洗面台の前で再び鉢合わせになった。鏡の前という限られたスペースは、二人の休日の朝における、最初の戦場と化す。
「ちょっと、どきなさいよ!私が先!」
シオの肩をぐい、と押し退けてサラスが鏡の前に躍り出る。
「……まだ顔、洗ってないでしょ」
「うるさいわね!」
シオが差し出す歯磨き粉をひったくるように受け取り、サラスは口を泡だらけにする。その横で、シオは淡々と自分の歯を磨き始める。磨きながら、サラスが肘で軽く小突いてくれば、シオも同じように軽く肘で押し返す。シオが丁寧に畳んで置いておいたタオルを、サラスがわざとぐしゃっと使って顔を拭けば、シオは溜息一つでそれをまた畳み直す。そんな、言葉少なで低レベルな攻防が、毎朝のように繰り返される。それは、互いの存在を確かめる、幼い獣たちの挨拶にも似ていた。
そして、身支度の最終段階。二人は並んでベッドの端に腰掛け、靴を履いていた。その静かな時間が、束の間の休戦を告げていた。
身支度を終え、二人は並んで部屋を出る。
「……眠い…休みの日くらい、ゆっくりさせなさいよ……」
サラスはまだ小声で文句を言っているが、その足取りはシオの隣から決して離れようとはしない。
長い廊下を歩いていると、不意に眠気の波にさらわれたサラスの肩が、こつん、とシオの腕に当たった。シオは何も言わず、ただ前を向いたまま。サラスも一瞬だけ動きを止め、そして
「……なによ」
と、誰に言うでもなく悪態をつくだけ。しかし、その瞬間、二人の間に漂っていた朝の険悪な空気は、ほんの少しだけ和らいだように感じられた。
やがて、賑やかな話し声と、焼きたてのパンやスープの美味しい匂いが満ちる食堂に到着する。休日ですでにそれなりの時間が経っているからだからだろうか、広い食堂に人はまばらだった。
シオとサラスは並んでトレーを取り、カフェテリアの列に加わる。彼らの前にも後ろにも人はおらず、周囲の喧騒が嘘のように、二人の間にはまた静かな空気が戻っていた。
「……今日のスープ、また豆じゃないでしょうね」
サラスが今日のメニューを睨みつけながら呟く。
「またその顔してる」
シオがぼそりと答える。
「子供扱いしないで! 大体、あんたはどうせスープとパンだけでしょ。それで足りるの?」
「……朝あんまり食べない派なんだよね」
そのやり取りに、食堂の配膳係の女性がくすりと笑ったのを、二人は知らない。トレーにそれぞれの朝食を乗せ、窓のないこの食堂で、いつも決まって座る壁際の席へと向かう。
当たり前のように二人は向かい合って席に座る。シオはいつものようにパンをスープに浸し口に放り込む。塩気と、恐らく鶏ベースの落ち着いた味と香りが口に広がる。シオはこの空っぽの胃に温かいものが落ちていく感覚を好む。やがてパンがなくなるとスプーンを使いスープを口に運ぶ。肉と野菜、バランスの取れた具材を咀嚼し飲み込む。
やがて全て食べ終えるとシオはいつものように、祈るように手を合わせる。
「ごちそうさま」と。
結局これは前世からの癖だ。もやがかかりはっきりと思い出せなくなってきた、かつての養母から教わったルーティン。それは、心の奥深くに突き刺さったガラスの破片のようで、だが、何かの拍子に思考がそれに触れると、今でも鋭い痛みが走り、血が滲む。でもシオはこの記憶を無いものにしたくはなかった。例え心が引き裂かれようと、自分に生まれて初めて温もりをくれた人を忘れてはいけない、そう思うのだ。
品数が少ない分サラスより食事が早く終わるのは当然のこと。シオは目の前の少女を見つめる。手を一生懸命に動かし食べものを口に運ぶ様子がなんだかとても……言葉にはできないけれど、自然に笑みがこぼれる。
「なによ、人のことじろじろ見て」
「ごめんって。いやぁそんなにおいしそうに食べるもんだからつい見入ちゃって。」
サラスが怪訝な表情を浮かべるのとほぼ同時だった。
「シオくぅぅん、楽しそうねぇ。何だかお皿の数が足りないような気がするのだけれども」
不意に背後からかけられた声に、シオはびくりと肩を揺らした。振り返ると、そこにはミストリアの服飾を一手に担うアンバーが、お盆を片手に呆れたような、それでいて心配そうな顔で立っていた。彼女の後ろからは、治癒士チームのレミやクリムも顔を覗かせている。
「アンバーさん……」
「『アンバーさん』じゃないわよ。またスープとパンだけ?言ったでしょ、君は細すぎるんだから、もっとしっかり食べなさいって。そんな食事じゃ、いざという時に体がもたないわよ」
アンバーはそう言うと、自分のトレーから焼き立てのペイストリーを一つ、ひょいとシオの空いた皿の上に乗せた。甘く香ばしい匂いがふわりと漂う。
「ほら、これも食べなさい。私からのおすそ分け。いい?残したら許さないからね」
その口調は母親が子供を諭すようで、シオはどう反応していいか分からず、ただ戸惑う。その様子を見て、サラスが口の端に付いたパンくずを拭いもせず、勝ち誇ったように言った。
「ほらみなさい!アンバーさんにも言われてるじゃない!あんたがちゃんとしないから、あたしまでとばっちり受けるのよ!」
「シオ君、サラスちゃんの言う通りよ。ちゃんと食べないと、この子が心配での計算間違えちゃうかもしれないでしょ?」
レミがからかうように言うと、サラスは顔を真っ赤にして
「そ、そんなことないわよ!」
と叫ぶ。
そのやり取りを、シオはどこか遠い世界の出来事のように眺めていた。心配されること、世話を焼かれること。その一つ一つが、彼にとってはまだ慣れない、くすぐったくて、少しだけ痛みを伴う温もりだった。
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