第2話 まったく触れない刺青事情。


 隣の席の石条は、二時間目の直前に戻ってきた。

 彼は体育着に着替え、メガネを外していた。

 顔の擦り傷には絆創膏が貼られている。

 服の上からでは分からないが、同じように体中の怪我にも手当てがされているのだろう。


「もう大丈夫なの?」

 教科書を準備しながら、風香が聞いた。


「問題ないよ。階段から転げ落ちて自転車と衝突して……それから学校までこれたんだから問題ないって分かるはずなのに、先生は大げさにするんだもんなあ。今すぐ病院にいけとかさ。そりゃ、後で問題が起こった時に責められるのは学校だから言ってるんだと思うけど……」


「朝のあの見た目なら、みんなそう言うと思うよ」


 問答無用で救急車を呼ばれなかっただけ、彼に寄り添った判断だ。

 あちこち怪我をしていたが、擦り剥いた箇所が多いだけで、骨が折れたとか記憶障害があるわけではない。保健の先生はひとまず内部の傷の具合だけを見たのだろう。


「放課後、問題なければいこうと思うよ。……おっと、次の授業はなんだ?」

「歴史だって。……絶対にいった方がいいと思うけど……。病院、嫌いなの?」


「好きな奴いんの? 嫌いってわけじゃないけど……。基本的に待たされるのが嫌なんだよ。受付、診察、で、また受付。どんだけ待たせるんだって話だ。その間に暇を潰そうと思っても集中しかけたところで名前を呼ばれる。絶妙なタイミングでな。だから迂闊に本も読めない。曲を聞いてたら呼ばれたのが分からないし……、当然だけど昼寝もできない。いっそのこと三十分後に呼びますとか言ってくれればいいのに。三分の時があれば二十分待たされることもある。あれ、どうにかならねえのかな?」


「ならないと思うよ」


 待たされるのが嫌なのは彼だけの意見ではない。きっとみんなそうだ。

 風香は待つことができてしまうが……集中はせず、ただじっと、ぼーっとできる時間は、意外と好きだった。一日の中でなかなかないのではないか。意識して「よしぼーっとしよう」というのも違うし……そういう時は決まってぼーっとできないのだ。


 だから風香からすれば貴重な時間と言える。

 人によるが、待たされるのが嫌なのはみんな同じだろう。彼は特に嫌っているようだけど。


 階段から転げ落ちてさらに自転車と衝突したのだって、落ち着く機会がなかったからだ。

 遅刻しそうで急いでいるからだけど、だったら尚更、一度は落ち着くべきなのだ。

 数秒でもいいからじっと待つ必要があった。

 しかし彼は止まらず走り続けた。全身の怪我は急いた結果なのだった。


「早いに越したことはないけど、待たせてる側も人間なんだし、素直に待つしかないんじゃない? お医者さんも、早く呼ぼうとした結果、石条くんにとっては遅いと思う時間になったんだと思うよ?」


 全力疾走した石条は、結果を見れば遅刻していた。

 めちゃくちゃ走ったのに。努力も空しく結果に繋がらなかった。

 頑張ったのに待たせた相手から遅いと言われている時にどう感じるか。

 石条は待たせてしまう側の気持ちを理解し、「あー」と納得した様子だった。


「待たせないように急いだのに待たせてしまって遅いと言われたら……嫌だよな」

「そういうこと。だからあんまりお医者さんを責めないであげてよ」

「うん、腑に落ちた。ところで香多岐は、親が医者なのか?」

「違うよ。世界を転々としているフリーの…………ライター?」

「へえ」


「みたいなことをしてるね。でもよくわかんない。飽き性でなんでもするから。今日した仕事も明日してるとも限らないから。顔が広いから稼げてるみたいだけど……」

「そういう生き方も楽しそうだな」

「大変だよ。少なくとも付き合わされてる娘は全然楽しくないんだから」


 雑談をしていると授業開始を知らせるチャイムが鳴った。

 歴史の授業だ。


 先生が教室に入ってきて、教科書の○○ページを開いてください、と指示が出た。

 転校生の風香は慣れたもので、少し先の勉強を予習していた……そのためこの学校の勉強についていけないことはなかった。

 学校によって進み方が違うので、授業範囲を先回りして困ることはない。

 ページを開く。隣をちらっと見れば、石条が教科書を開いて、だけど内容が違う。


「石条くん、違う」

「ん?」

「それ、現代文でしょ」

「あ、ほんとだ」


「……歴史の教科書、忘れたの?」

「あー……ないかもなあ」

「じゃあ、見せてあげる」


 転校生の自分が在校生に教科書を見せるなんておかしな状況だ、と内心で微笑みながら、机をくっつけて教科書を共有する。


「見える?」

「見える見える」

「見てないじゃない」

「どうせ見ないしなあ。授業なんて話を聞いてれば分かるもんだよ。というか聞いてないと分からないし。板書も写す必要なんか実はないよ。目に焼き付けておけばいいんだから。ようは覚えていればいいわけで、ノートに綺麗に書き写す必要が絶対にあるわけじゃないんだ」


「ノート提出があるって言ってるけど」

「マジかよ、どうしよ」

「どうしようもなにも、書けばいいんじゃないの?」


 石条は苦戦しながら、板書の内容をノートに書き写していた。

 メガネがないのでもしかしたら見えにくいのかもしれない。

 風香はいつもよりも丁寧にノートを書き、あとで彼に見せてあげようと思った。



 昼休み。風香は弁当を取り出して周りを見る。

 ひとりで食べることに抵抗はなかったが、一応、転校生なのでクラスメイトと距離を詰めようとした……けれど。やっぱりみんな、顔の刺青に怖がって近づいてきてくれなかった。


 話しかけたいけど話しかけられない、ではなくて、話しかけたくない嫌悪と恐怖が感じられた。隠す気もなくて、分かりやすく距離を取っている。

 風香の周りの席だけ人がおらず、風香だけがぽつんと食事をすることになる。ちなみに石条は忘れ物が多くて教師に呼び出されていたので、今頃は職員室だろう。


「(……今日が初めてってわけでもないし、ひとりで食べよう……)」


 日本の学校では、昼食はひとりで食べるものだった。

 海外だと友人の輪に入れてくれる子が多かった。やはり文化と認識の違いだ。


 風香から誘えばいい、というものでもなさそうだし、迷惑になりそうだ。余計なことはしない。どうせ一年も経たずに――いや、早ければ半年もいないかもしれない。すぐに転校するのだから、距離を詰める必要もなかった。


 食事を進めていると隣の席に座った男子がいた。戻ってきた石条だ。


「なんだよ転校生。ひとりで食べてるのか? というか周りの奴も薄情だよなあ……転校生がきたらいつもは質問攻めにするのに、今日はなしかよ。なんでだ?」


「そんなの……」

「まあいいや。一緒に食べようぜ、香多岐」

「…………。ねえ、石条くんは、帰国子女?」

「? 違うけど。生まれも育ちもこれからも日本だ。出る気はないな。俺は日本に骨を埋める。日本が沈まない限りは!」


 海外への造詣が深いわけではなかった。

 なら、ただ単に気にしない人間性なのだろう。


「……ありがとう」

「なにが? 飯を一緒に食うくらい大変なことじゃないし」


 転校生への質問攻めは全て石条がしていたが、周りの生徒も耳を立てて聞いていた。

 興味はあるようで、感じ取った風香は安堵の息を吐いた。


 無視されたり攻撃されたりするような嫌われ方ではなく、ただ関わり合いたくないだけだった。きっと顔面の刺青がなければ普通に話しかけてくれるだろう距離感だろう。

 ……刺青は消せないけど、親の敵のように嫌われているわけではないことが分かっただけでも気分が楽になる。転校する度に同じように不安と安堵を繰り返しているが、慣れたと思っても毎回ドキドキするものだった。


 質問攻めと言っても雑談の中に交じってお互いに興味があることを話しただけだ。好きな映画やアニメの話……他にも趣味は? など。あの動画配信者が面白いよね、みたいな会話。

 こうしてクラスメイトと打ち解けることができたのはいつぶりだろう。

 小学生の頃、以来かもしれなかった。

 周りの目を気にせず、「あははっ」と気を抜いて、声を出して笑えた。教室で。転校前までは考えられなかったことだ。


 食事は進まず、ずっと話していた。昼休みが終わる直前まで会話が続いていて……弁当の中身が残っていることに気づいて、慌てて食べ終えた。


「楽しかったな……」

「そりゃ良かった。またすぐに転校してほしくはないなー。俺の意見だけど」

「うん。私も、楽しかったから…………親に言ってみる」


 転校を繰り返す中で初めて、この学校にいたいと思えた。せめて卒業までは……。

 この学校にいたい。

 いや、彼と一緒に通いたかった。


「(結局、刺青のことは言われなかったな……)」


 気を遣われたわけではなく、本当に興味がないみたいに。そんなことよりも他に聞きたいことがあるんだけど、と言ったように、彼は優先するべきことが他にあったのだ。


 もしかしたら、話すことがなくなれば触れていたかもしれないけど……ぐっと距離を詰めた上で聞かれたら、風香も嫌とは思わない。

 顔面の刺青について、自分の考えを全て吐露していただろう。

 それくらい、今日一日で彼に心を許していた。


「(石条くん、かあ……)」


 彼が見えにくそうにしていた板書を丁寧に写したノートが手元にある。

 自分で分かってしまったが、文字から伝わる好意があった。びんびんだった。これを渡すのはさすがにできなかったので、結局、ノートは持って帰ったのだった。




 …続

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