9月14日

 月曜日は陽翔にとって最低の一日になった。


 結局あの男の生死は確認できなかったし、孝弘の態度も気に食わなかった。それに、孝弘が「忘れなきゃダメだ」なんて言ったせいで、余計に男のことが気になって仕方ない。結局あのあとも何も手に付かずにモヤモヤしたまま過ごし、月曜になってもそれは変わらなかった。いや、むしろモヤモヤは日に日に大きくなっていた。


 そのせいで、理科の授業では宿題を忘れて叱られるし、国語の漢字テストもロクに出来なかった。何より、ずっと満点を取っていた算数の計算テストで酷い点を取ったのが、陽翔には一番ショックだった。先生からはからかわれるし、クラスのみんなにも笑われた。


――ダメだ。忘れなきゃ。しっかりしなきゃ……


 算数のあとの休み時間、陽翔は首をブンブンと横に振ると、頭の中をリセットしようとした。だが……


「孝弘くん、凄いじゃん。頑張ったんだね!」


 少し離れたところで、奈緒の声がした。陽翔は小さく舌打ちした。今日の計算テストで、孝弘が満点を取ったのだ。少なくとも、陽翔が転校してきてから初めてのことだった。


「すげえな、やれば出来るじゃん、孝弘」

「その調子で頑張ろうね!」


 奈緒に続けて、孝弘を称える声が聞こえてくる。孝弘はみんなに囲まれて、照れくさそうに笑っていた。そのいかにも人の良さそうな笑顔が、陽翔の神経を逆撫でした。


――ふざけんなよ。俺はいつも満点を取ってるのに、馬鹿がたまに満点を取ったらチヤホヤしやがって。だいたい、俺がつるんでやらなかったら、お前がそうやって皆に話しかけてもらえることも無かったんだぞ。それなのに何だよ。金曜はボールを失くしても探しにいかないし、昨日は偉そうな口を聞きやがって。ああ、ムカつく。マジでムカつく……


 気が付くと、陽翔はあからさまに舌打ちをしていた。誤魔化そうとしてそっぽを向いたが、時すでに遅しだった。


「何よ、陽翔。あんた、もしかして僻んでるわけ?」


 奈緒がからかうように言ってくる。陽翔はそっぽを向いたまま「は? 何の話?」ととぼけてみせたが、奈緒はしつこく絡んできた。


「今、舌打ちしたでしょ。ちゃんと聞こえてたんだからね」


 陽翔は何も返さなかった。だが、奈緒はさらに追い打ちをかけてくる。

「友だちが頑張ったのを素直に認めてあげないなんて、恥ずかしいと思うよ。今日のテストが出来なくて凹んでるのは分かるけどさ、いつまでもウジウジしてると格好悪いよ」


 図星をさされて、陽翔は思わず立ち上がった。


「うっせえな! そんなんじゃ無いって言ってるだろ。ほっとけよ!」

「ほっとけないわよ! ちゃんと謝りなさいよ、孝弘くんに」


「そうよそうよ」と、奈緒の取り巻きたちが声を上げる。周囲もそれに同調したり、「また痴話喧嘩だよ」と冷やかしたり……気付けば陽翔は、クラスから総スカンを喰らっていた。


――なんだよ。こいつら、調子に乗りやがって……


 そして、いよいよ陽翔が爆発しそうになった瞬間だった。


「は、陽翔くんを責めるのはよそうよ。誰だって、調子が悪いときもイライラしているときもあるよ」


 突然、孝弘が立ち上がり、声を上げた。奈緒を始め、クラスの連中はみんなポカンとして孝弘のことを見ていた。彼がそんな風に声を上げるなど、今まで一度も無かったのだ。


 皆が孝弘と一緒になって陽翔を見ている。クラスの連中が孝弘とグルになって馬鹿にしているような感覚に苛まれて、陽翔の苛立ちが急速に煽り立てられる。


――どこまで上から話して来やがるんだ……馬鹿でのろまな孝弘のくせに……


 そして次の瞬間、陽翔は決して言ってはいけない言葉を言い放っていた。


「母子家庭のくせによ……」


 言った瞬間、陽翔は自らの口を覆っていた。どうしてそんなことを言ってしまったのか、自分でも分からなかった。教室の空気が凍り付くのがはっきり分かる。それまでガヤガヤと騒いでいた連中は一斉に口をつぐみ、全員がまるで得体のしれない怪物でも見るかのような目で陽翔を見ている。


 窒息するほどの静寂が教室を支配していた。やがて、吐き捨てるような奈緒の声が響いた。


「最低……」


 気が付くと、陽翔は教室を飛び出していた。


 孝弘は母親と二人暮らしだった。


 三年前の春に転校してきたときには、父親もいたらしい。父親は大学教授。そこそこ名の知れた大学で文化人類学の教鞭を取っていた。もとは大学の近くに住んでいたそうだが、どういうわけか三年前、御幸町に引っ越してきたそうだ。教授としての仕事は順調で、本も何冊か執筆し、比較的裕福な家庭を築いていた。孝弘は学校では殆ど話さない子どもだが、両親とは仲良く話しているのを町の人たちも見ていた。


 ところが、御幸町に引っ越してきて一年も経たぬうちに、父親に異変が起き始める。始めは、家族と話していてもボンヤリしていることが多くなった、という程度のものだった。しきりに何かを考えていたという。過去にも、何かの研究に没頭し始めるとそのような状態になることは何度もあったため、孝弘も母親も特に気にしていなかった。


 しかし、楽観的な母子の考えに反して、父親は急速におかしくなっていった。ほとんどの時間を心ここに在らずという状態で過ごし、毎日夜になるといそいそと出掛けて行く。次第に大学の講義も休校にすることが増え、しまいには無断ですっぽかすようになった。母親は疲弊し、夫婦喧嘩も絶えなくなったが、その頃には父親は呆けたようになってしまっていて、ほとんど母親が一方的に責め立てているだけだったそうだ。


 そして、孝弘が四年生に進級してすぐ、孝弘の父親は姿を消した。

 

 陽翔は空き地で膝を抱えていた。先ほどまでの苛ついた気持ちから一転、彼の全身に後悔がひしめいていた。


 どうして舌打ちなんかしたのだろう。

 どうして素直に謝れなかったのだろう。

 そもそも、どうして自分はあんなに孝弘を見下していたのだろう。

 自分の方がよほど最低じゃないか。


 そして何よりも……


 どうしてあんな言葉を言ってしまったのだろう。

 絶対に言ってはいけない言葉なのに……

 

 思えば、孝弘は陽翔のことを本当に信頼していたのだ。仲良くなってしばらくして、孝弘は陽翔に父親がいなくなった経緯を詳しく話していた。もちろん他の連中には内緒という約束でだ。


 いつか、体育の着替えで孝弘の体を見て、陽翔は驚いたことがある。彼の体には、痣や傷跡がたくさんあったのだ。


「どうしてか分からないけど、父さんは変になっちゃったんだ」


 孝弘の言葉を思い出して、陽翔は何となく察していた。


――あれは、おかしくなった孝弘のお父さんが……


 クラスの連中は、孝弘が片親だということを何となく知っているだけだ。恐らくそんな断片的な上方からは想像できないくらい、いや、事情を聞いた陽翔でさえ分からないくらい、孝弘は辛い思いをしていたのだ。彼はその辛さを、信頼できる誰かと共有したかったのだろう。陽翔は、その相手に選ばれたのだ。


――それなのに……


 陽翔の目に熱いものが溢れていた。目頭が痛いほどに絞られて、少年は必死に声を押し殺していた。

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三十日後に微笑むオッサン 澤ノブワレ @nobuware

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