9月13日

 日曜日、陽翔は自分の机に向かったまま、何も手が付けられずにいた。孝弘に情けない姿を見られてしまったショックもあったが、何より、やはり茂みにいた男の異様な姿が脳裏に焼き付いていたのだ。土曜日はサッカーの練習で気が紛れたものの、やはり練習には身が入らなかった。


 だが、陽翔にはあれが、奈緒の言っていた「茂みのオッサン」だとは思えなかった。妖怪だとか幽霊だとか、そういうものにしてはあまりに現実感が強すぎたし、何より、奈緒の話とは決定的に違う部分があった。


「ニヤニヤ笑ってるんだって」


 男は笑ってなどいなかった。あの無表情からは、むしろ悲壮感さえ漂っていた。陽翔の中にあるのは、全く別種の不安だ。


――あの人、もしかして死んでるんじゃ……


 そこだけ時の止まったような無反応、仮面のように固まった表情、恐らく何か月も着替えていないであろう服装……そういった姿が小学生男子に連想させたのは、「死」だった。


――いや、でも死体があんな姿勢で立っているのもおかしいよな……


 それからもいろいろなことを考えていたが、取り留めのない思考が堂々巡りするばかりだった。陽翔は考えるのに疲れ、ベッドに倒れ込んだ。一度眠って気持ちを落ち着けよう、そう考えて目を閉じる。だが、しばらくもしない内に瞼の裏に男の顔がくっきりと浮かんで、陽翔はベッドから飛び起きた。


――やっぱり、警察に言った方がいいよな。


 あれが死体でなかったとしても、もしかしたら記憶喪失か何かで雑木林に迷い込んでしまった人という可能性もある。陽翔が昨日考えた通り、変質者の可能性もある。いずれにしても、警察に任せるのが一番に思えた。


 二階にある自室から電話のある一階に降りる。親は二人とも出掛けていた。陽翔は電話の受話器を上げると、一一〇番した。


「はい、一一〇番緊急電話です。事件ですか? 事故ですか?」


 驚くほどすぐに電話が取られ、早口で捲し立てられる。その勢いに、陽翔はすっかり動転してしまった。


「え、いや、あの……えっと……」

「どうされましたか?」


 対応する警察官の声が、あからさまに険しくなる。瞬間、陽翔は怖くなった。もし、もうあの男が雑木林にいなかったら、ひょっとして、あの雑木林に住んでいる人だったら……きっとお巡りさんにこっ酷く叱られるに違いない。そんなことを考えた瞬間、陽翔は反射的に受話器を置いていた。


――やっぱり、もう一度自分の目で確かめてからだ。


 陽翔は決意すると、服を着替えて家を出た。




 九月も中旬に入り、ずいぶんと日が短くなっている。陽翔が空き地に着いた頃には、もう日が傾き始めていた。薄ぼんやりとした空を見て、陽翔はまた不安になる。


――大丈夫だ。さっさと終わらせて帰ろう。


 ぶんぶんと首を横に振って、フェンスへ向かう。と、後ろから近づいてくる足音がした。


「は、陽翔くん」


 振り返ると、そこには孝弘の姿があった。どうしてコイツがここにいるんだ、と少し考えて、陽翔はアッと声を上げた。


――ああ、そうだ。今日はコイツと遊ぶ約束してたんだった。


 孝弘に対して呆れていたのと、男のことで頭がいっぱいだったのとで、陽翔はすっかり忘れていたのだ。確か約束は昼過ぎだった。もしかしてずっと待っていたのだろうか、そう考えると、陽翔は流石に申し訳なくなった。だが、金曜日のことがまだ胸に突っかかって、素直に謝ることが出来なかった。


「そ、その、一昨日はごめんね」


 先に謝ったのは孝弘だった。


「その……ボール、変なところに蹴っちゃって」


 孝弘は俯いて指をモジモジさせていた。陽翔が約束を破ったことなど既に忘れているようにも見えた。だが、その言葉がむしろ陽翔のイライラを膨らませた。


――いやいや、そうじゃないだろ。俺はそんなことに怒ってるんじゃなくて、お前がグダグダ言ってボール探しを手伝わなかったことにムカついてるんだよ。謝るところ間違ってるだろ。マジでトロいな、お前。モジモジしやがって、キモいんだよ。


 と、考えたことがそのまま陽翔の口から出そうになったが、すんでのところで堪えた。良いことを思いついたのだ。


「別に気にしてないよ。でもさ、お前が本当に悪いと思ってるんなら、俺の頼みを聞いて欲しいんだけどなぁ」

「何? 頼みって。僕、なんでも聞くよ」


 よほど友人に見捨てられたくないのだろう、孝弘の目が輝いた。陽翔はいかにも言いづらそうな顔をしてから切り出す。


「いや、実はさ、昨日あの雑木林に入ったときに、鍵についてたキーホルダーを失くしちゃったんだよね。ほら、あの剣の形したやつ。今から探しに行こうと思うんだけど、手伝ってくれないかな」


 孝弘の表情があからさまに曇る。陽翔はそれを見て一瞬だけ意地悪く口角を上げると、すぐに残念そうな表情を作った。


「なんだよ。何でもするって言ったじゃん。いや、まあ別に良いんだぜ。あそこには茂みのオッサンがいるんだもんな。別に無理にとは言わないよ。俺は本当に気にしてないんだし。ただ俺は、お前の気が晴れるなら良いかなと思っただけだから」


 そう言うと、陽翔は素っ気なく踵を返してフェンスに向かった。


「わ、分かった。行くよ。探すの手伝う」


 後ろから孝弘の声が聞こえて、陽翔はニヤリとして振り返る。


「良いのか? 無理しなくていいんだぜ」

「大丈夫。陽翔くんのためだもん」


 再び孝弘の目が輝いた。


 もちろんキーホルダ―の話は嘘だったし、孝弘など何の頼りにもしていなかった。だが、万が一にも危ない状況になったとき、囮にするくらいは出来るだろう。陽翔の中ではそんな算段だった。


 夕暮れが近づいているせいか、雑木林の中は前にも増して暗かった。孝弘は草を掻き分けて必死にキーホルダーを探していたが、もちろん見つかるはずはない。陽翔は探す振りをしながら、例の開けた場所へと孝弘を誘導する。やがてそこが見えてくると、陽翔は鼓動が速くなるのを感じた。逃げ出したい気持ちを押し殺しながら、ゆっくりと歩を進めていく。金曜日とは少し違う、男の全身が見えるであろう位置に陣取る。


 そして、陽翔は思わずあっと声を上げた。


 やはり男はいた。彼は金曜日に見たときと全く変わらぬ位置に、全く変わらぬ姿勢で立っていた。


「おい! おい、孝弘! こっちに来い」


 陽翔は声を押し殺して孝弘のことを呼んだ。


「どうしたの? キーホルダー、見つかったの?」


 暢気に言いながら、孝弘が近づいてくる。陽翔のすぐ背後で、孝弘の足音が止まるのが分かった。


「見てみろよ。あそこに変な奴がいるぜ」


 陽翔は男を指さした。


「全然動いてないよな、あれ。生きてるのかな。もしかしてあれ、『茂みのオッサン』だったりして……」


 不思議なことに、改めて見てみるとあまり恐怖は感じなかった。あらかじめ居るかもしれないことが分かっていたからか、それとも孝弘がいるからなのか、とにかく、陽翔は改めてそれが人間であろうことを実感していた。


 余裕が出てきたせいか、陽翔は面白くなってきていた。


――また孝弘を丸め込んで、生きてるか死んでるか確認させに行ってもいいな。孝弘のやつ、小便チビって逃げ出すかもしれないな……


 だが、孝弘からは何の反応も帰ってこなかった。


「なんだよ、お前。聞いてんのか? え? もしかして帰ったんじゃないだろうな!」


 陽翔が痺れを切らして振り返る。孝弘はちゃんとそこにいた。だが、その顔は陽翔が期待していたようなものではなかった。彼は恐怖するでもなく、驚いた様子もなく、ただボンヤリと男のことを見ていた。


「おい、どうしたんだよ」


 孝弘の異様な様子に、陽翔は少しだけ背筋が寒くなるのを覚えた。


「何だよ、返事しろよ」

「陽翔くん」


 陽翔の声に被せるようにして、孝弘が口を開いた。


「もういいよ。帰ろう」


 孝弘にしては珍しい、冷たい、毅然とした口調だった。


「は? 何言ってんだよ。あれが何か確認しようぜ。それにキーホルダーもまだ……」


 言い終わらないうちに、孝弘はもと来た道を速足で帰り始めた。陽翔が呆気に取られているうちにずんずんと距離が空いていく。ふと気が付くと、もはや日は暮れかけ、雑木林の中は暗闇に包まれつつあった。陽翔は急に怖くなって、孝弘の背中を追いかけた。


「何だよ、急に。勝手に帰ってんじゃねえよ」


 空き地に戻ると、陽翔は孝弘を問い詰めた。


「何でそんなに冷静なんだよ、お前。もしかしてあの男がいること知ってたのか?」


 孝弘は答えなかった。代わりに


「陽翔くん。もうあそこには近付かない方がいいよ。それから、あの人のことも忘れなきゃダメだよ」


 静かにそう言うと、踵を返す。そのとき、陽翔は頭の傷が微かに傷むのを感じた。

 陽翔は孝弘の後ろ姿を呆然と見つめていたが、また急に腹が立ってきた。


「なんだよ。偉そうに上から言いやがって……」


 辺りは薄闇に包まれつつあった。陽翔はフェンスの奥を名残惜しそうに見つめると、トボトボと家路を歩き出した。

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