わたしの、

はるこ

わたしと、名前と、セーラー服

「あの、制服、私のじゃない?」


「へ?」


夏真っ盛り、汗と制汗シートの匂いにむせ返りそうな更衣室に私の間抜けな声も加わった。


「たぶんそれ私のかも‥内側に名前が書いてあると思うんだけど。」


「えっ、うそ、ごめん。ちょっと待って」


一応、なんとなく後ろを向いて制服のスナップを開ける。名前を書くところなんてあったかな、と思ったが制服の内側、タグの横に綺麗な字で「佐久間凛」と書かれていた。


「ほんとだ〜佐久間さんのだ。ごめん!私汗かいてるのに」


「私こそごめんね。さっきひっかけて落としちゃって、そのまま取り違えたみたいで」


友達に先行ってて、と声をかけ、一つ棚をあけてお互いに制服を脱いだ。気まずい。というか、制服を取り違えるなんて、そうそうないよな。相手も気まずいだろうな。


「マジでごめん、絶対臭い」


目線は棚に向けたまま、ちょっと変な体制でずいっと制服を差し出す。


「体育の後だし、私もだよ。ごめんね」


素早く制服を受け取り、いつもより気持ち急いでスナップボタンを閉める。うーん、なんかしっくりくる気がする。あと、全然くさくない。私、けっこう汗かいたから申し訳ないな。1年半を共に過ごした制服を身につけた私はリュックを背負って、せめてドアを開けよう、と思い、佐久間さんが着替え終わったのを確かめてから、がらがらと建て付けの悪い更衣室のドアを開けた。


「ありがとう」


「いやいや、ごめんね、ほんと」


そこで初めて、私たちは目が合った。佐久間さん、コンタクトにしたんだ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


佐久間さんのことはよく知らない。あまり目立つ人ではないけれど、成績優秀で、たしか吹奏楽部で、あとは自己紹介の時に「佐久間凛」という名前がぴったりな人だな、と思った記憶がある。


名は体を表すなんていうが、人間の場合は全く違って、その人が完成する前に名前をつけるものだから、親が用意した器のかたち通りに生きる人なんてほとんど居ない。


でも、佐久間さんは凛という名前はもちろん、苗字も含めて、彼女を彼女たらしめている感じがして、素敵だな、と初めて見た時からちょっと憧れていた。



制服の一件以来、私はなんとなく佐久間さんのことが気になりはじめて、彼女のことを観察、とまではいかないけどたまに目で追うようになった。それでわかったのだが、彼女は持ち物ほとんどに名前を書いていた。教科書、鞄、消しゴム、靴、水筒。記名欄があるものはもちろん、タグとかスペースがあるものならほとんど全て。すごく綺麗な字で。


あんなに綺麗な字がかけて、あんなに素敵な名前だったら少しも恥ずかしくないんだろうな。私もせめて字が綺麗だったら。

字と、名前。たったそれだけだけれど、私が誰かに憧れるのには充分だった。


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更衣室での出来事から1週間ぐらいたったころ、トイレで佐久間さんとばったり鉢合わせた。あれ以来、会話という会話もなく、佐久間さんはいつも通り、私はたまに佐久間さんを目で追ったり、追わなかったりして過ごしていた。


トイレの、3つ並んでいる手洗い場を1つへだてて、話しかけようか、話しかけまいか、心の中でさくまさん、と言葉をころがしてみる。


「あ、佐久間さん、」


心の中に留まってはくれなかった。声に出したい日本語とはこのことか。佐久間さんは話しかけられたのが意外だったのか、ゆっくり私の方を向いた。あ、今日は眼鏡なんだ。


「急に変なこと聞くんだけど、佐久間さんって持ち物全部に名前書いてるの?」


一瞬の沈黙を突き破り、いつもの「凛」という感じじゃなく、いうならば、ふわっと、佐久間さんは笑った。


「ふ、ふふ。全部じゃないよ」


「全部じゃないか。それはそうか」


「うん、全部は大変だよ」


「でも、他の人より名前書いてる物が多いよね」


「それはそうかも。なんか、小学生の時の名残で。なんとなく安心するんだよね。私のものだ、って確かめられるから。この前の制服もそれで気づいた」


そういってまたふふ、と笑う。やっぱり、ふわっとした感じで。


「字、すごく綺麗だよね。名前も似合ってるし。羨ましい」


「そうかな、名前が似合ってるって、初めて言われた」


「私、名前と性格が合ってないような気がして、字も汚いから持ち物に名前書くの好きじゃなくて。せめて字が綺麗だったらなって思うんだけど」


そう、せめて字が綺麗だったら。小さい頃は大人になったら自然と字が綺麗になるものだと思っていたのに、私は一向に上達しなかった。周りの子達は歳を重ねるにつれて、それ相応に、大人の字になっていったのに。私だけ、置いて行かれてしまった。


「うーん、名前と性格が合ってるかなんて考えたことなかった。字が綺麗っていう

のは、硬筆習ってたからだし、そんなふうに思う人もいるんだね」


きゅ、と蛇口を閉め、ハンカチで手を拭きながら感慨深そうに佐久間さんは言う。私は私で、そんなに深い話をしたつもりはなかったので、だんだん恥ずかしくなってきた。この前みたいにドアを開ける。


「ありがとう」


「ごめんね、急に変なこと言って」


「変じゃないよ、面白かった」


佐久間さんはこれから部活だろう。2人で教室に戻る。


「ねえ、教科書って、名前書いてる?」


唐突に、佐久間さんが尋ねた。


「教科書?いや、クラスと番号だけで、名前は書いてない‥」


「私が名前書いてみてもいい?試しに、ひとつ」


「えっ、佐久間さんが書いてくれるの!」


それは、思いがけない、否、この1週間、頭の片隅で日に日に膨らんでいた想像だった。


「私でよければ」


「佐久間さんに書いてほしい!」


1週間ちまちま育てていた想像が、急に大きくなって、私の頭を飛び出して、目の前に広がっている。はやる気持ちを抑え、私は引き出しから古典の教科書を出した。


「これ?油性でいい?」


「お願いします。あ、私の名前、これ」


いつもよりなるべく丁寧に、自分の名前を書いて佐久間さんにみせた。


「おっけー。華ってこっちなんだね」


そう、足立華。正直、あんまり好きじゃなかった。苗字の軽妙な感じと、名前の仰々しい感じがなんとなくズレてるし、「華」というほど華やかでも美しくもない。苗字の割には大きめの期待を背負わされたなと中学生のときからぼんやり思っていた。


あだちはな、と小さく呟いてから、油性ペンの蓋を開けて、佐久間さんは私の名前を書き始めた。とめ、はらい、右上がり。習字とか硬筆なんて夏休みの宿題でしかやったことないけど、薄くてつるつした手触りのいい紙とか、なぜか落ち着く墨汁の匂いとかが自然とよみがえった。


きゅ、きゅ、とリズムを刻むみたいに油性ペンが走る。私の名前、けっこういいリズムじゃん。


「できた。これでいいかな」


私の正面に教科書が差し出される。思わず、うわあ、と声が出る。めちゃくちゃ綺麗だ。自分の名前じゃないのにこんなに綺麗に書けるんだ。綺麗な字だと、私立のお嬢様校みたいだ。


「すごい、綺麗。私の名前かっこよかったんだ」


「うん、そう、かっこいいよ。

 さっきさ、名前と性格が合ってない、って言ってたよね?でもね、私、足立さんのことよく知ってるわけじゃないけど、あだちはな、って言う響きが足立さんっぽいなって思うよ」


「響き?」


「うん。漢字の意味とか、込められた願いとかじゃなくて、響き。口に出した時になんか、そう思った」


あだちはな、頭の中で呼んでみる。あだちはな、あだちはな‥なんか、そう言われたらそんな気がしてきた。なにかが始まりそうな、俳句の最初の5音みたいな。


私の名前が、やっと、私のものになり始めた気がする。


「そっか。やっぱり、名前、書いたほうがいいよね」


「ん?うん、そっちのほうが便利だと思うよ」


「制服を取り違えた時とか?」


「もう、」


いたずらっぽく私が笑い、佐久間さんもふふっと笑う。

そうか、体育がある日はコンタクトなんだ。



佐久間さんが書いてくれた「足立華」。私はそれをみるたびに、私も、佐久間さんも、ずっと苗字が変わらなければいいのに、と願ってしまうのだ。





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