第9話 何も知らない

 薬師の婆様は俺に断った後パイプ煙草に火をつける。

 中身は煙草ではなく薬草を乾燥させて調合したものらしい。


「まず坊主は酢は何か知ってるか?」

「調味料……ですよね? 食べ物の味付けや保存に使う」

「まあそういう認識が普通だ。だが酢の使い道は本当に広いんだよ……。じゃあ酢の原料はなんだか分かるか?」

「うーん。液体だから水と何かを混ぜる? でもあの酸っぱさを考えると」

「混ぜるのは間違ってないが、さっぱり分からないって顔だね。答えは酒になる物ならどれでもだよ」

「酒……ですか」


 酒は収穫祭で飲んだことがある。

 独特の味と風味で飲むと体が熱くなって気分がふわふわする飲み物だ。

 味や匂いなど全く違うしとても酢と関わりがあるとは思えない。


「原理は分かっちゃいないが、穀物やブドウを特別な手順で保存すると酒になる。これは知ってるね」

「ええ。うちは作ってませんが村長の家でも作ってたりしますし」

「酢ってのはね。酒を更に保存すると作れるんだ。あれ自体が保存食そのものなんだよ」

「へぇ……!」


 知らなかった。

 だから婆様は酒造の出稼ぎで造り方をしっていると言ったのか。


「しかし酢を造る、ねぇ。商人から貰ったのがそんなに気に入ったのかい? 好きなやつは好きだろうけど」

「いえ、そういうわけじゃないです。もちろんとても美味しかったですが」

「じゃあなんだい? はっきり言うけど簡単じゃないよ。むしろ大変と言ってもいい。自宅で消費する分くらいならなんとかできんことはないが」

「できればたくさん作りたいんです。そうすればたくさん保存食が作れて前みたいに飢え死にの心配をしなくてすむようになる。俺たちだけじゃない。隣の村だってきっと」


 カン、という音がした。

 婆様が煙草の中身を暖炉へと捨てたのだ。


「たまげたね。あんた飢饉をなんとかしようって腹積もりかい。領主ですら手も足も出ないような災害を!」


 何が面白いのか婆様は笑う。

 一人きり笑った後に再び薬草の塊を煙草につめて火をつける。


「若いってのは……向こう見ずだがその志は悪くないね。一人でも誰かを助けられるかもしれないってのは大切なことだ」

「はい。それで教えてもらえるんでしょうか」

「構わないよ。豆も貰ったしね。……良い豆だ。艶もいい。これで酢を造ったらいいものができるだろう」

「えっ。この豆からですか?」

「できないことはないさ。芋やトウモロコシからだって作れるんだ。まあ色々と試してみることだね。ついておいでよ」


 立ち上がった婆様の後ろをついて行く。

 倉庫に案内された。

 その中で小さくて古いツボを渡される。


「いいかい、この中に酒を酢に変えるための特別なものが入っている。大事に扱うんだよ」

「この中にそんなものが……」

「まあすぐに作れるわけじゃないから大事な保管しておきな」

「分かりました」


 大事に抱え込む。


 それから婆様に酢造りに必要なものを聞く。

 どうやら家の中では作ってはいけないらしい。

 ちゃんとした小屋を用意し、環境を整えてやらないと酒造りの時点でただ材料が腐ってしまうのだとか。そうすると全てが無駄になる。


 それから道具だ。

 思った以上に多い。

 幸いどれも木で作ることができるようだ。

 特に大きな桶が大切になる。

 買おうと思うととてもじゃないが手が出ないので自作することになりそうだ。


「私が教わったことは本来門外不出だ。だがまああれから時間も経っているし、見て覚えたことが殆どだから構いやしない。それに上手くいくかも分からん」

「婆様でもか」

「ああ。あれはあくまで出稼ぎだったからね。その金で薬学の本を買って村に持ち帰り、以来は薬師さ」


 婆様に礼を言って帰る。

 この壺は大切にしまっておこう。

 しかし豆からか。

 原料の調達も課題だったのだが、もしこの豆が材料になるならその心配は不要だろう。


「兄さんお帰り。どうだった?」

「婆様も喜んでくれたよ。それからこの壺なんだが、しまっておくから触らないでくれないか」

「それはいいけど、何が入っているの?」

「酢になるなにか、だってさ。だが今はまず酒を造れるようにならないと」

「……なんでお酒? お酢を造るって言ってなかった?」


 俺と全く同じことをリナが言う。

 そういう認識になるよな。婆様から言われたことをそのまま伝えた。


「お酒がお酢に……お酒のままでもいい気がするけど。売り物になるし」

「酢だって売り物になるさ。きっと。今回の不作で保存食の大切さが皆理解できただろうし」

「そうかなぁ?」

「そうだとも。しばらく俺は道具を作ることに専念するつもりだ」

「畑の世話をしながら? 大変じゃないかな」

「やると決めたからにはやる。もう二度とあんな思いはしたくないから」


 幸い木は森の入口でいくらでも採れる。

 まずは言われた通り小屋を作ろう。


 次の日、畑仕事を終えた俺は早速斧を持って森へと行く。

 森の中に足を踏み入れれば危険だが、入り口は安全だ。

 良さそうな木を時間をかけて伐採し、枝を落とす。

 このままでは重すぎてもって行けないので、運べる大きさに斬らなければならない。

 これが重労働だった。

 初日は結局途中で作業を中断し、疲労困憊で家に帰ったほどだ。

 手にマメも出来てしまった。

 これは長丁場になるぞ……。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る