第7話 山羊頭の魔神

 決められた予定へと向けて準備は進められて行く。夜闇が空を固めて星が叩く。星々の亀裂が入るこの世界の中で大きな月が輝きを放ち、それども輝きたちは地上を照らしてはくれない。月の女神様は力なく微笑み続けていた。真昼の名を持つ女はしっかりと世界を見つめて一人の女へと視線を定めていた。

「あなたから呼んでこの扱いなんて」

 目の前の女は闇に紛れて見えなくなってしまいそう。夜闇の中ではローブと大きな帽子の色も細かな形も装飾も見えて来ない。

「仕方ないね、いなくなってしまいそうだから」

 真昼の声はしっかりと届いたのだろう。魔女は声を歪める。満明にも一瞬で分かってしまう不快な笑い声。暗い世界を思わせる声、しかしそこに乗せられた感情はあまりにも明るい。

「何があった事か」

 この会話の中、主役は果たして誰なのだろうか。魔女は真昼の頼みを聞いてくれるのだろうか。満明の心は不安で満たされて行った。

「わざわざ〈東の魔女〉を頼ろうなんて」

 真昼は頭を下げ、再び顔を上げて魔女の方へと目を向け会話を進める。

「お願い、この男の言う事に沿った魔法をペンに書き込んで」

 満明には想像も付かなかったこの態度。真昼が相手に対して腰の低い様を見せる事が驚きでしかなかった。そんな様子を見つめ、満明へと目を移して魔女は鼻で笑う。

「一般人なんかの言う事に」

 魔力を見れば分かってしまう事なのだろう。顔の向きは明らかに真昼の方、つまり、目だけで十分な相手だと思われているのだろう。

「頼む、俺は一人の魔法使いと戦わなきゃいけない」

 魔女は顔を微動もせず、夜闇に固定された絵画に見えてしまう。真昼は財布を取り出そうとするも魔女は言葉で制した。

「宿命を感じる、この被害者を救うつもりなら」

 そのつもりならばどのような行動に出るつもりなのだろう。魔女が一歩、また一歩、満明の方へと近付いて来る。ヒールと帽子の力によってただでさえ身長が高く感じられる女は更に大きくなっていく。

 やがて満明の目の前へと迫り止まる事数秒間。覗き込む瞳、覗き込まれる瞳、覗き返す瞳。魔女の視線を受けて生きた心地がしない。

 魔女はペンへと向けて布で覆われた手を伸ばし、剥き出しの細い指で触れる。

「お好きな魔法を仕込むから言ってごらん」

 そうして特に報酬も支払うことなく満明の目的は達せられた。


 時間は過ぎ去る。浩一郎とは一度しか会っていない。顔を向ける事で妙な動きをしていると怪しまれてしまうだろう、などと告げると共に浩一郎は満明と真昼の繋がりを指摘して関係の壁を突貫工事で作り上げてしまった。

 それから更に日にちは重なり、ある夜の事。

「明日飛行機に搭乗ね」

「ああ、そうだな」

 既に真昼には目的地を告げていた。一旦逃げ込む隠れ家の周辺に人を呼ぶと言っていたものの、どのような人物がそこで待っているというのだろう。

「大丈夫、あなたならやれる」

 満明の手は震えていた。以前の戦いは真昼が主演を張っていた。しかし、これから控える戦いは最終的には満明ただ一人。たった一つの魔法しか扱えない満明が魔法道具という頼りないものに縋りながら脅威、悪魔に立ち向かわなければならないのだ。

「そんなに心配しなくてもいいわ」

 顔に本音が出てしまっていたのだろう。真昼は目を細め艶っぽい表情を浮かべながら満明をベッドに座らせてそのまま重なるように身を預ける。

「そう、こうやって運命に身を委ねればいいの」

 真昼の目からは惚れたような気配が見えて来ない。互いに持つ感情の不思議を味わいながら満明は真昼の肩を抱き締める。

「いいの、それで」

「全て、上手く行くんだよな」

 満明の問いに真昼は顔を左右に振り、満明の胸板に顔を乗せ、指でなぞる。

「違うわ、上手く行かせるの」



 そんな夜も過ぎ去って、空港に二人。どうやら浩一郎は遅い便に乗るつもりらしい。

「酷い人ね」

 真昼は呆れていた。心の底からの感情を表面に、雰囲気として纏ってしまう程に大きく占める感情として抱えていた。

「友だちを安全確認に利用だなんて」

「ああ、全くだ」

 最早友情と言うものを感じる事さえ困難になっていた。あの男は人という心ある存在からどこまでも離れて行ってしまったようだ。

「絶対に帰って来て」

「そうしたら結婚だったな」

 どのような情で接していたのだろう。互いに仄かな甘さも爽やかな酸味も無い感情で結ばれようとしている様に誰もが驚くことだろう。

「もう娘の名前まで決めてるの」

「生まれるのが女とは限らないぞ」

 しかし、真昼は占いという言葉を用いて娘だと断定していた。

 搭乗手続きの時間がやって来た。真昼の顔を見つめながら零す言葉などただ一つ。

「生きて帰って来るからな」

 真昼はこれまで見せたことの無い朗らかな笑顔を向けて満明と別れの言葉を交わす。

「幸運を祈ってるわ」

 辺りは既に喧騒に支配されていた、人々の往来は道を塞いでしまう程に激しく忙しない。そんな人の流れの中へと入り込み、満明の姿は真昼の視界から遠退いていく。

 やがて人の波が壁を作り、あの姿は完全に視界から失われた。



 やつれ果てた男が足を引き摺りながら歩いていた。地を削る姿を想像させる足音、しかしながら実際に削られているのは男そのもの。

 浩一郎が身を運ぶ先は今にも崩れ去りそうな廃屋。長年に渡る役割を終えた果ての姿、建造物の老後と呼ぶに相応しい姿をしていた。奥の方へと、闇に飲まれ暗闇一色と化した空間をゆっくりと歩く。友を迎えるべくゆっくりと。

 航空機を降り、空港から出て数十分程度の距離、そこで魔法使いに襲われた。二振りの輝く剣を振り回す褐色肌の女、空色の剣という特徴的なものを扱っていながら戦いの手段は斬撃のみ。その剣を出すことの出来る者と言えば〈西の魔導士〉とも〈空の魔女〉とも呼ばれている一族のみ。

 彼女の住まう地域からは遠い場所を選んだはずが待ち構えていた。満明の行動が筒抜けだった可能性、最悪の場合は裏切り者の疑惑まで抱かなければならなかった。

 命からがら逃げ切って、多大なる疲れを背負って不安定な一歩を踏み出し続ける。広いはずの歩幅が狭く感じられてしまう。軽いはずの身体の重みにふらつきながら身を引き摺ってようやく奥まで辿り着き、椅子に腰掛けロウソクに火を灯し、その場で休む。

 それから数十分の経過だろうか。少し思考が透き通りつつあるものの未だに薄霧に覆われたようにはっきりとしない思考にねじ込まれるように言葉が放り込まれる。

「待たせたな」

 暗闇の中から突然現れたような男、足音一つ立てずに部屋まで訪れた満明の堂々たる姿を見て浩一郎は安堵の情を差し込んだ。

「そんなに待って無いぞ」

 大きな嘘だったが疲れを取るための休憩を想うならば程よい時間といえた。

「満明、今から逃げよう」

 満明は鞄から水の入ったペットボトルを取り出しキャップを捻る。

「さてと」

 そのままペットボトルの蓋は開かれた。

「なぁ、浩一郎」

 浩一郎は、これから満明が水を飲むものだと思っていた。

「お前さ」

 しかし、そのような目的などでは無い。そう知ったのは満明の視線の行く先が浩一郎だと気が付いてからの事だった。

「悪魔なんだろ」

 透明なペットボトルの先で移植を放つ白の口は暗い地へ向けられる。

「分かるぜ」

 ペットボトルがひっくり返されることで溜まっていた水は着地点を失い地へと注がれていく。

「あの文字、読む気にもなれなかったんだ」

 しっかりと彫られた溝はペットボトルより注がれる水が行き渡っていく。

「もっと人に見せられる文字を書けよな」

 それは暗闇の中、浩一郎が休憩の為に居座るからと照らしていたロウソクの火を受け微かな輝きを見せる。

「おのれ」

 途端に浩一郎は人の姿である事をやめた。みるみるうちに元の形を消し去って、そこに現れたのは逞しく禍々しく長い二本の角が生えた山羊の頭の持ち主だった。骸骨と化した右半身と腕、左は腕が無く代わりに夥しい量の蛇が絡み伸び動いていて、そして多く生えた足は全て吸盤の並んだ触手のようでまさにタコのようだった。

 満明はコートよりペンを取り出し手を放す。ペンは重力に身を任せて落ちて行く。

「山羊の頭をした悪魔め」

 ペンが溝を一度叩くと共にまるで月の周りで薄く輝く夜空のように青白く輝いてその存在を露わにしていく。

「お前の新しいお家に帰してやるよ」

 不気味な光は円を描き、その中に幾つもの独特な文字と幾何学模様が描かれる。そうして満明を護る魔法陣は完成された。

 かつては浩一郎だった化け物は腕より伸びる蛇が魔法陣の輝きの壁を懸命に叩き続ける。ガラスに阻まれるかのように意思を持ったひものような生き物が力を込めつつ止まる様は恐怖でしかなかった。

 満明はかつて友だった〈山羊頭の魔神〉を睨み付ける。

『己が内に潜みし闇よ』

 蛇の抵抗にタコの足も加勢する。それでもなお壊れる様を知らない壁だったが信用は出来ない。

『外界に蔓延りし闇よ』

 何度叩きつけられた事だろう。目の前には白く濁ったヒビが浮かんでいて心の余裕を奪い去る。

「な、何故だ。やめろ」

 ますます激しくなる触手によってヒビは広がりを見せる。

『秩序の内外に巣食う闇よ』

 かつて友だった存在の叫びは無視し、唱え続けていた。

「やめろ、よすのだ。それだけは、〈分散〉だけは」

 魔法陣は遂に破片を外に飛び散らせ、薄まり始めていた。

『不当に固まりし闇を〈分散〉し』

 ようやく壁を突破しそうだというところで満明はわざとらしく呪文を唱える速度を緩め、声にくっきりとした淵をつける。

『世界へと還し給え』

 魔法陣は完全に破られた。ガラスのように砕け、微かな輝きと共に薄れていた壁は遂にヒビから大胆に崩れて穴をあけ、そして一気に消え去った。

「お前に借りた物だ。返してやるよ」

 片手に握られた真っ直ぐ向けられた銃より発射された無感情な弾は異形の額を貫いた。〈山羊頭の魔神〉は額を押さえ、断末魔の叫びをあげながらその形を崩し闇の靄となって消えて行く。

 満明は気が付いてしまった。〈山羊頭の魔神〉が消えると共に、闇となって世界へと還って行くと共に自身の右腕が闇に包まれて行っている事に。

 やがて残された満明の右肩の変化はしっかりと認識された。そこに腕があるのは分かっているが視えない、そもそも脳がその不可視の腕を視る事を拒んでいるようだった。

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