第6話 決定

 煙は宙を舞い、カフェ特有のコーヒーの気高い香りと混ざり合って不快な臭いを漂わせている。カフェのカウンター席で並んで座る男女の姿がそこにはあった。

 女の細い指にはさまれた煙草から上がる煙は未だに慣れない。しかしながら背の高い女の細められた目と上がる煙、形の良い手と時たま煙草を加える艶やかで紅い唇。何もかもが様になっていた。

「三日後、アナタの運命の舟は動き出す」

 真昼の目は天井を、煙の上る先を追いかけていた。

「どちらに舵を切るつもりかしら」

 煙は煙草を離れ、次第に薄くなっていく。運命の行き先は未だ白紙のようで、まさに消えた煙のよう。

「もしその時、向こう側に付こうと言うのなら」

 そんな目がいつの間にか満明を捉えていた。気が付けば喉元に透き通る氷の剣が迫り、寸前で止められている。

「分かっている」

 その剣はどの瞬間から彼女の手に握られていたのだろう。満明は剣を手で払い、コーヒーを飲み干す。

「アレを見てまで良き友でいようなんてそんなおめでたい頭じゃない」

 思い返していた。あの男の依頼から逃亡の提案、手渡されたメモに書かれた文字まで。正気とは思えないものだった。

「いい返事よ」

 真昼の言葉に救われたような気がした。女の声に照らされた心はようやく正しい道を選び抜いたのだと他者の視点からの言葉を得た気がした。

「あの男は自分が狂っている事にも気づけない」

 真昼は煙草を灰皿に擦り付けた。舞う煙は広く薄く、空間に消えて行く。

「落ちるとこまで落ちて狂いに溺れ切った者」

 そこは珈琲の香りを多大に封じ込めた空間。経験の数だけ色の抜けた白髪と顔に刻まれた深い皺。少なくとも六十の年の年季は感じられる老人。それ程の年数をこの世界で重ねて来たと思しき老人が豆を砕きながら聞き耳を立てていた。

「貴女はまたマンガの友だち仲間を増やしたのかね」

「そんなところね」

 煙草の煙のように吹き出した嘘はあまりにも自然で非日常の事態の当事者である満明でさえそう錯覚してしまいそうだった。

「最近貴女のマンガ仲間の皆さましかいらっしゃらなくなった」

 マスターは寂しそうに窓の外を見つめる。きっとかつては様々な色を持つ客が自由気ままに出入りしていた事だろう。

「連載が終わった後が恐ろしいのう」

 客層が固定してしまう事の不安、固定される理由が崩れ去ってしまったその時、繋がれていた縁は果たしてどのような形へと変わってしまう事か。客は引き続き足を運んでくれるものか、不安に襲われてしまう。

「安心して。マスターの生命よりは長い歴史を歩み続けるから」

 長期連載を騙ることが出来るのもマスターがマンガに興味が無いからとしか言いようがない。事情一つで崩れてしまう危うい嘘だった。

「少なくともあの組織が壊滅するまでは終わらないね」

 魔法使いに関係する事柄をマンガの中の話だと誤魔化す真昼を見て満明はつい口を横に開き静かな笑い声を零してしまう。

「笑ったな。その余裕が憎たらしいわ」

 そんな満明の表情を見逃すはずが無かった。そうでなければ真昼という女が今この場で隣に座っているはずも無かった。

「でもまぁ、今の方がステキね」

 その言葉を奏でる声は、辺りの重みに浮いた綺麗な音色はどこまでも広がり心に染み渡って行く。

「負け犬社会人の一員でしかなかった頃よりもずっとずっと輝いてる」

「これがかつて負け犬として散るはずだった漢、生まれ変わった俺の宿命ってやつか」

 真昼は微笑んだ。その顔は意地が悪そうで、しかし、優しさに包まれた淡い昼のような適度な明るみのようなものだった。

「私の勘は初めから告げていたわ。アナタはゴミの掃き溜めなんかよりも闇の中で戦っている方が似合ってる」

 果たして誉め言葉なのだろうか、満明にはそうは聞こえない。闇の中で戦うということの苦しみは蜘蛛の件で一端とは言え充分に思い知らされていた。

「掃除するのは闇のセカイの中の愚かな闇、アナタの闇で穢れた闇を掃除するの」

 言葉の端から端までが中学生の妄言のような響きを持つ。満明の中ではしっかりと真実として生きている物事ではあった。

 完全に信じていたものの半信半疑にも似た色合い、思い切って踏み込み切れていない、そんな想いを見透かされたのだろうか。言葉が更に加えられる。

「そしてゴミなんかよりも女を抱きなさい」

「恋なんてする歳じゃねえかもな」

 三十という年齢は若さが残っているものの、社会に飲まれ、片想いで片付けた心もあって、そうして過ごして来た時間は果てしなく感じられた。

「恋愛的には無理になっていたって、愛情を込める相手は残ってる。闇に染まった手でも闇を纏う人々は抱けるもの」

 満明は真昼の言葉を拾い上げて味わう。恋愛感情以外のモノで愛するという事は果たしてどのような気分になるものだろうか。

 そんな彼の心の流れなどに構うことなく真昼は話題を戦いの方向へと引き戻す。

「ところで、知ってると思うけど相手は果てしなく恐ろしい」

 満明は知っていた。あの実験レポートを記した人物。きっとその気になれば人間にも手を加えてしまう事だろう。もしかすると既に己に手を加えてしまっていてその結果があの文字を綴る彼なのかも知れなかった。

「ああ。だから色々と手伝って欲しい事がある」

 満明の声は既に魔法の世界に飲み込まれた心をしっかりと示していた。

「倒す術は持ってるから時間を作れたら、と思ってな」

 相手を倒す手段は既に決まっていた。あの人物を倒すには、あの男の闇を目の前から掻き消すために世界中に〈分散〉する他なかった。

「まずはこのペン」

 満明が取り出したペンは真昼からの借り物。照明の輝きを反射する立派な銀の身体が高級感を演出していた。

「相手は世俗から離れているような野良魔法使い、新しいものは知らないと自分で言ってたな」

 その証拠にペンを取り出して探偵気取りと言わんばかりの格好つけで手帳に書き込んでも悟られなかった。

「コイツに他の術式を組めば目くらましくらいにはなるぞ」

 真昼はフロントポケットからペンを取り出して軽く振る。万年筆は相変わらずの高級感。二人の視線を束ねて沈黙を生み出すには充分すぎた。

「そうね、もっと使える方法があるわ」

 中身を失ったコーヒーカップをカウンターテーブルに置いた真昼は妖しく微笑み、満明に背を向けて立ち上がる。

「きっとアナタ好みの戦いになるわ」

 そのまま歩き始める真昼について行くべく満明は一気にコーヒーを飲み干した。

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