第5話 山羊頭の御柱計画

 夜が明けて、ホテルを後にしてすぐさま電車に乗り、職場へと向かって行く。幻想と橋渡しの現実の中、いつも通りの仕事をただ行うのみ。終わらせる時に湧いて来る感情からは何一つ希望の艶を見せない。疲れがのしかかって来るだけの事だった。

 いつもの帰り道を通ることも無く、住宅やアパートの並ぶ街の中を歩く満明。生活態度の中に紛れた異色は更なる異色を移植しようと企んでいた。

 ごく普通の一軒家のようにも見える居酒屋のすぐ裏に聳え立つ古びたアパート。カビが染みついた階段を上りたどり着いた二階、廊下の奥まで進んだ先の部屋の呼び鈴を鳴らした。しかし、呼び鈴の返答は沈黙の間だけ。再び呼び鈴を鳴らすも返事は静まり返った空気だけ。

 満明は期待も込めずにただドアを引く。感情無き手の力を受けてドアは何一つの錠の抵抗も無く開かれた。満明の目はドア以上の開き具合を見せていた。

 抵抗無きドアの向こう側へと吸い込まれるように入って行く。中へ中へと入って行く。奥へ奥へと入っていく。狭い部屋の中、浩一郎の不在はすぐさま確認できた。

「魔法使いを敵に回し過ぎた人物とは思えないな」

 その態度はまさに愚かそのもの、身を守るためのドアは役割を放棄した見かけ倒し。

「自殺志願者の様な有り様だ」

 辺りを、浩一郎が蒐集した妖しげで怪しげな道具に充ちた部屋を見渡す。おどろおどろしく気味の悪い模様の入った壺、変に透き通る青い石、何に使うのだろうか想像すら付かせぬ木の棒。そんな棒を埋め尽くすかのように得体の知れない文字が書かれていた。謎の水の入った瓶やアマガエルの標本が置いてある机の引き出しを開く。

 机の口は素直に開かれ、そこには数枚の紙が入っていた。

 一枚目の紙に目を通す。そこには大きな文字で〈山羊頭の魔神生産計画〉と書かれていた。運命に導かれるままに紙をめくる。そこに描かれていた絵を目にした満明は言葉を失った。山羊頭の蛇、山羊の頭蓋骨を頭として人の骸骨を身体とした存在、山羊のような姿をしてタコの足を持つ異形。恐らくこの三柱こそが真昼の言っていた〈山羊頭の御柱〉なのだろう。

 真昼に借りた手帳とペンを持ち、その記録の破片を複製していく。様々な犠牲、生け贄を出す事で完成した存在。幾度の実験を重ねて来た悪しき軌跡がしっかりと書き留められていた。中には蛇の身体やタコの足、山羊の頭の中身、土人形の心臓。それらに加えて人由来の物質や人体の一部を使用した非人道的なものさえあったという。

「あまりにも悪趣味だ」

 呟きながら次のページをめくる。前のページの工程を経て完成された三柱の悪魔を一人の人間に取り込み〈山羊頭の魔神〉を完成させる実験だったようだ。それらの文章から多少の空白を持ったその下、そこに書かれていた文が気になって仕方がなかった。



『悪魔暴走時の緊急抹消術式・〈分散〉の力』

 目の前の邪悪な存在を現実の悪、闇、そうした世界の中へと溶かし込む術式。

 軽々と走り書きされたその文字列、〈分散〉の力、その名と簡単な日本語の詠唱を手帳に書き込み、そして頭の中に叩き込む。

 続いて勢いそのままに開いた次のページ。その内容はあまりにも異様だった。記されているのはこの世のどのような文章とは異なる姿を持った文字の羅列。何故だか読めてしまうが、読む事を心が拒む、脳そのものが理解する事を嫌悪し、瞳に映る事でさえも嫌になるようなあまりにも不気味な文字列だった。しばらく眺めようと奮闘するが、すぐに耐え切れなくなった満明は紙の全てを閉じ、机の引き出しに戻した。

 それからすれ違うようなわずかな時を経ての事だった。ドアの開く音が響く。入ってきたのは例のあの男。

「おっ、満明か。良かった」

 いつもの笑顔を見つめることで知ってしまった。彼に警戒心など皆無なのだという事。

「鍵空いてたぞ」

「魔法使い共は鍵掛けても開けて入れるからもう開き直って鍵開きっ放しなんだ」

 浩一郎は椅子に腰掛け大きなため息をついていた。

「しかし、良かったよ」

「ドアを開けたそこにいるのが四大元素の使い手の東院じゃ無くて」

 満明は一つ、昨夜生産した文句をしっかりとぶつけてみせた。

「あの女に銃弾が全くもって効かなかったんだが」

 それに対して返された言葉は思いの他軽いもので、満明の必要性の低さを体感していた。

「ふーん、なら、いいや」

 それから息を吸うように一つの提案が、目にも止まらぬ速さで飛んで来た。

「二人で逃げようぜ。どうせお前も顔割れてんだ」

 このままここにいても助かる事はない。それが浩一郎の感想。

「三日後に飛行機に乗ってだな」

 国外へと去る、彼の考えはそのようなものだった。

「俺は外国語ムリだが」

「何とかなる」

 満明は手帳と真昼に借りた例のペンを使って浩一郎に指定された場所と日時を書き留める。

 そんな姿から行動までを舐め回すように見つめる浩一郎の目はニヤニヤとイヤらしい形を取る。

「それにしても手帳とペンか。まるで探偵みたいだな」

 偏見に満ちていた。彼の言う事を真に受けては仕事を行なう者の内どれ程の割合で探偵の真似事が生まれる事だろう。

「そんなに賢く見えるか」

「似合ってるぜ」

 浩一郎の目の色は日頃のものと変わりない。何一つ疑う素振りを見せない。近頃の魔法道具に触れる機会が無いと以前語っていたその目ではペンに仕込まれた術式に気が付く事が出来ないのだろうか。

「持って来るものは、流石にオレがカイタホウガイイだロ」

 一瞬生まれた違和感を受けて満明は左目を震わせるように動かす。

「お前がメヲウタガうようナモノだカラな」

 そう言って浩一郎は必要な道具を書き込んだ紙を手渡す。先程の言葉の中に混ざった音の歪みに満明は耳を塞いでしまいたかった。

 そんな表情を見て浩一郎は首を傾げながら訊ねた。

「疲れたのか」

 満明は腕時計を指して続いて黒く色付き始めている空を、彩を失いかけて一日という時間を手放そうとしているそこを指す。

「仕事の後だからな」

 しんどいと顔で語る満明に対して浩一郎は欠伸混じり。今日一日を過ごした手段が知りたくて堪らなかった。

「じゃあまた今度、例の計画の時な」

 そんな声を背に彼の部屋を後にした満明。手渡されずっと握り締めていた紙を広げるもほんの一瞬で目を離し、再び握り締めて歩き出した。その紙を一瞬たりとも持っていたくなかった。

 深い闇に染められた夜特有の空を背にして歩き続ける。数々の家々を通り過ぎ、やがてスーパーマーケットへとたどり着いた。そして入口近くのゴミ箱に目を向けながら通りすがりにその紙を放り込んだ。

 あの紙を、そこに書かれていたあの文字などもう目にしたくはない。己よりも位階の高い邪悪なる存在共が使うあの記号、この世のどのような文字とも異なる形をしているにも関わらず読めてしまう形、読むことはおろか目に入れる事さえも憚られるあの文字列を読む事など苦痛でしかないのだから。

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