第3話 蜘蛛

 カウンターの向こうに何を見ているのだろう。魔法の世界の素人である満明には全く以て分からない。仕草から想像を巡らせることしか出来ないでいた。

「臭いか。虫臭いってか」

「虫の羽ばたきみたいに不快ね」

 真っ向からの否定に満明の顔は曇り始める。美女とは言えども言葉の選択肢が無限であるはずなど無いものだ。

「この状況では」

 続けて付け加えられた一言によって薄暗い想いは一瞬にして吹き飛んだ。

「じゃあ何してるんだ」

 満明の疑問は至極真っ当、魔法使い歴を持つ者以外には分かるはずなどない。仮に無自覚な才能に充ちている人物であれば無意識の内に行うことだった。

「探ってる」

「探ってるだって」

 訊ね返すことしか出来ない。理解力の低さを錯覚して満明の鼻は影を帯びていた。

「魔力の流れをね」

 魔力とは見えるものではないのだろうか。満明が口を開こうとしたその瞬間、真昼は言葉をその場に乗せる。

「魔力の実体は無くて説明は難しい」

 満明は口を開いたまま声の一つ、返事の欠片すら捻り出すことなく聞いていた。

「その場に漂っているようで」

 開かれた口、流れ出す声、全てに柔らかな温もりが宿っているよう。

「地面に根付いているようで」

 くすみを塗り付けたような黒い革の靴に覆われた足を踏み出し上品な一歩を刻む。

「動けば分かってしまう」

 途端に剣を大きく振る。目標は何処なのだろう。目で追ってみても遅れを取り戻すことは無かった。

「打てる不意はないわ」

 目が追いついたそこには剣と交差する異形の姿。長々とした黒光りする身体を這わせて動く何者か、身体から生えた大量の足はまるで百本あるものだと語らせてしまう。

「ムカムカするな」

 満明の言葉に真昼は正体の理解を見た。

「毒に気を付けて」

 大きくて鋭い鈎のようなものの付いた口で人の身を突こうとする姿。囚われてしまえばたちまち死という終焉の亡霊が憑いてしまうことだろう。

 満明は拳銃を構えて大きな口へと狙いを定めて。真昼はその姿にすら目を向けていたのだろう。

「やめて」

 よそ見をしている余裕は無いはず。その行為は命取り。ムカデは次こそは隙を手に入れられたのだと浮ついているのだろう。嬉々とした表情で素早く襲いかかる。

「しまった」

 そう言いながらも真昼は剣を突き出しムカデの口の中へと刺し込んだ。その勢いは放り込んでいるのかと勘違いしてしまう程のもの。

 突如内側へと侵入してきた冷たい刺激に思わず口を目一杯に開いて顔を上げようとするムカデ。

 その隙を見逃すはずも無かった。手帳を開いて相手の方へと向ける。

 輝きを放ち、ムカデの方へと一直線に氷の魚群が飛んでいく。群れは魚の形を成して勢い任せに突き進むのみ。照準の座標を定めた後には角度など変えられない、一直線に突き進むだけの不便な武器は真昼の意のままに敵を貫いていた。

 悲鳴にならぬ声にならぬ、そんな想いを剥き出しにしながら化け物たる虫は倒れて消え去る。

「順番でも決めてるのか」

 満明は今更そんな気づきを口にしていた。

「一気に出て来たら今頃お望み通り」

 一度に相手を出来るはずがない、一体ずつの対処でどうにか生き延びていられる程度のちっぽけな存在なのだから。

「俺たちを墓の土壌に出来ただろう」

「ここで死んだら墓入らずよ」

 真昼はタバコを咥えてライターを取り出す。

「滞留する魔力の質かしら」

 魔法使いとは言えども分からないものだろうか、語りが推測の形を成していた。

「全員でシェアでもしているのか」

 ライターは勢いを背負った音を鳴らしながら火花を散らす。そのまま伸びた火をタバコの先に当てる。

「どの道救われたということか」

 上がる煙はこれまで仕留めてきた悪魔たちに焚く線香のようにも見えた。

「きっとこの向こうにいるわ」

 カウンターから飛び降りて言葉を刻み込むようにドアを切り裂いた。

「狭い所かも知れないから戦いにくいかも」

 ドアは素直に崩壊し、道は開かれる。向こう側にはこのカフェのマスターの姿があるのだろうか。

「行くわ」

 開かれた道を、己で拓いた途を進み行く。二人並んで通る余裕をギリギリで保つ狭い厨房、大して立派でもないフライパンの代えやメモ用紙、シャープペンシルといった物が置かれた部屋の奥には異形と呼ぶに相応しい何かが独特の存在感を放っていた。身体の後ろが膨らんでいて、そこから生えているものは細かな毛に覆われた八本の細長い脚、そして何処を見ているのか、何が視えているのか、抱いている感情すら見通させない八つの眼を持つ毛むくじゃらの悪魔だった。

「何だ」

 先程と同じ場所だというにも拘わらず、満明の声の通りが妙によく感じられる。

「古い建物に住むのは虫だらけってか」

「舐めてかかったらすぐに殺されるわ」

 そのようなやり取りを断ち切る勢いで悪魔は口から糸を吐き、天井近くの棚の戸を引き千切って放り投げる。

 勢い任せに飛んで来るそれを引き裂き走る真昼と蜘蛛に鋭い眼光を向ける満明の姿の間に距離が出来上がる。

「口から糸を出すなんてな」

 本来の蜘蛛との身体の造りの違いは満明の口から言葉を奪うどころか余計な思考まで吐き出させてしまう。

「じゃあどこで物を喰うんだろうな」

 軽い口を叩く男など無視して真昼は蜘蛛を両断した。随分と柔らかなそれ、素直に切り分けられた身体を見つめて気を抜いた一瞬。その一瞬の情から気を奪おうと言わんばかりの勢いで中から同じ存在が現れた。

「簡単にはやられてくれないものね」

 それから何度も何度も、幾度と無く引き裂くも、ただひたすら繰り返すものの、その度に全ては振り出しに戻る。冷ややかな色をした連撃、風変わりな光景だったもののもう見飽きたのか蜘蛛は脚を上げ真昼に突き刺しにかかる。途端、真昼は跳躍し、左手に握る氷の剣を投げた。

「突き刺されるのはあなたの方よ」

 勢い良く蜘蛛に襲いかかりそのまま刺さった剣。開いた場より再び蜘蛛が現れようとしていた。

 その時、真昼の左手には開かれた手帳が収まっていた。手帳はただそこで涼やかな輝きを放ち、氷柱の雨を降らせる。十、百、二百、絶え間なく降り注いではそこに在る蜘蛛の姿を粉々に砕き続ける。

 それからどうなったものか分からない、分かる暇さえ自らに与えない速度で兎にも角にも撃ち続け、討ち続けた。

 やがて、真昼の足は地を捉える。

「これで終われば良いのだけれど」

 しかし、その願望はいとも容易く崩れ去った。幾つもの穴の開いた虚ろな蜘蛛の死骸、その背中より純白の糸が飛び出し襲い来る。狙いは手帳だった。

 真昼は慌てて糸を剣で振り払う。しかし、糸は剣に斬り伏せられる事は無く、粘り強く巻き付きそのまま引っ張っていく。真昼は慌てて手を離すもそのタイミングはあまりにも遅過ぎた。軽い身体は狭い壁に勢い良く叩き付けられる。

 咳き込む真昼、全身を駆け巡る強烈な痛みが動く事すら許さずにただ蜘蛛を睨み付けることしか出来ない。

 蜘蛛は真昼のその目を無機質な感情しか宿らぬ玉のような目で捉えた。

「そこにいるな」

 声を掛けられたことすら気が付かない。痛みを抱えながら引き攣り震える身体を想うだけで精一杯の様子だった。

「黙っても無駄だ」

 その状態を知る事など無いのだろうか。異形が分かり合えない理由がそこに詰まっていた。

「何度も味わった魔力のにおいだ」

 真昼の元へと近付いて行く蜘蛛、その蜘蛛にマグカップを投げつける者がいた。一瞬生まれた沈黙の後、蜘蛛は幾つもの脚を忙しなく動かし満明の方へと向きを変える。

「邪魔者め」

 幾つもの目は全てが同じ向き、同じものを見つめるに至った。

「貴様から喰らってやろう」

 蜘蛛が満明に接近を試みたその時、蜘蛛の額には包丁が突き立っていた。

「ここでは軽食も出すんだってな。お前がなれよ」

 額は裂け、またしても生まれる空洞。暗闇のようにも見えるそこからからまたしても同じ蜘蛛が脚を突き出し身体を死骸の外へと晒す。

「〈此処にある物〉で殺せると思うな」

 突撃する蜘蛛、素早く、速く、風のように接近する。それに対してナイフを構えていた。迫る蜘蛛の頭に突き立てるものの気休めにしかならない。

「ムダだ」

 例によって大きな裂け目となり、やがて再び蘇りを果たすことだろう。

「出たら撃って」

 身体を強張らせ地に伏したままの真昼は精一杯声を張り上げていたものの、震えていつもの艶を失っていた。

「撃つの」

 慌てて満明は銃をコートのポケットから取り出し構える。再び目を向けたそこには既に蜘蛛の頭が飛び出していた。

 早く、速く、夙く、疾く。

 強大で壮大な焦燥に駆られ、考えるよりも、感じるよりも、何よりも遥かに疾く引き金に指を当て、勢いよく引いた。本体の中で叩きつけられた弾丸は乾いた爆発音を響かせながら勢い任せに外の世界へと飛び出し、異形の者へとその力を叩き込む。

 貫かれた蜘蛛はすぐさま次の身体を用意しようとするものの、違和感に気が付いた。

「魔力が無い、不純物だ」

 脳天を撃ち抜かれた蜘蛛は思考するチカラが残っていたものだろうか。言葉を残して穢れた身は塵と化しながら散らされて、形無き深淵の果てへと消失して行った。

 満明は脂汗を浮かべ、肩で息をしながら、力を失ったかのように地にへたり込んだ。緊張感の余韻はそれ程までに力を奪い去ってしまうものか、満明は横たわる真昼の姿を見つめて壁に寄りかかる。

 この二人こそがこのカフェが迎え入れた最後の客の姿だった。

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