第2話 悪魔の宿命

 明るかった空もやがては恋に染まるものだろうか、ほんのりと朱く色付いて淡く色っぽい幕を張る。そんな感情は青いのだとひっそりと呟きながら清掃用具を片付ける。

 やがて一礼をもってその場を立ち去り例のカフェへと足を運ぶ。歩き続けて見渡した空の色が示す時間を見つめることで昨日よりも遅い時間に飛び出したものだと今になって気付かされた。

 カフェにたどり着く頃には空の色は涼しいガラス質の黒に染め上げられていた。昨日よりも遅いことなど明らかだった。

 木のドアを開いて入り込む。昨日はこの場所で例の女性に会った。今日も同じように出会う事が出来るとは限らないものの、やらない事には手掛かりすら掴めない。つまるところ満明は進む以外の選択肢を握っていないと言うこと。

 運命の糸に吊り下げられて操られているかのように、どこか受動的な想いを抱きながらも抗うこと叶わず同じ事を繰り返す。浩一郎の声が今も尚耳にこびりついて嫌悪感は迸るのみ。

 ドリップコーヒーを頼み、昨日に改めて店内を見渡していく。壁を作り上げる木は焼いてあるのだろうか、焦げ特有の黒々とした茶色が空間を色付けていた。

 そんな不自然そのものの加工を用いていながらもどこか自然を感じさせる建物の味わいを吸い込み堪能する。

 続けて人々に目を移す。昨日と同様にカプチーノを飲みながら甘い話と軽い触れ合いを繰り広げるカップルがいた。

 続けて着目した先は窓際のテーブル席、そこには当然のように昨日と同じ光景が繰り広げられていた。数々の資料と向かい合って文字を書き込み続ける顔の整った女がいた。昨日と同じはずの鋭い白銀の光を放つペンが強い存在感を放っていた。今そこにいる女こそが満明に与えられた試練。美しき命を死の穢れによって染め上げること。

 そんな非日常に馴染んだ超常的なペンの輝き、そこから滲み出る違和感に目を細めつつも満明は美女と向かい合うべく同じテーブルの椅子に腰掛ける。

「よお、やっぱり今日も居たんだな」

 根拠もない、予想もしていなかった。全ての驚愕の反動に面食らいながらも全てを鈍色の感情で覆い隠しながら言葉をかけていた。美女はコーヒーを一口啜り、満明を流し見て老けた男の顔に一言、美しき音色を綴る。

「不思議で不気味なセカイへようこそ」

 不思議で不気味、やはり昨日と同じ魔法の事を語るつもりなのだろう。態度の変化が見られない。つまりは気まぐれや一時の病みなどではなく彼女の中に住み着いたひとつの世界観が語りかけているのだ。しっかりと根付いている幻ほど厄介なものはない。今しっかりと思い知らされていた。

 そんな中で満明は昨日とは異なる点をどうにか見つけ出して会話を必死で試みていた。

「今日はタバコ、吸わないんだな」

「タバコはアナタが言ったんじゃない」

 あぁ、そうだな。相槌を打つ。今の満明に出来ることなどそれだけ、何という無力。ただただ嘆くことさえ許されない環境の中で気まずい空気だけが流れていく。満明の世界観に過ぎない空気感、相手は冷ややかな雰囲気を纏って何を思っていることだろう。想像も付かない。昨日と同じコートのポケットの中から訴えてくる一つの異常。拳銃の重みは満明に対して何を求めていることだろうか。

 美女は満明の緊張の意味合いを取り違えているよう。目に走るトゲトゲとした雰囲気を緩めて人と人が関わる上で大切なことを求めてきた。

「そうね、まずはアナタの名前を教えて」

「金手満明だ」

 間髪入れずに返された言葉に顔をしかめつつ女は声を捻れさせて更なる疑問を投げかける。その顔から取れる表情の意味は分からないものの、機嫌が良いとは言い難かった。

「それが本名かしら」

「勿論だ」

 美女が疑問を覚える理由が分からない。美しい顔を歪めてまで疑う程のことではないだろう。満明に嘘を付く理由など何一つとしてありはしなかった。

 美女はスーツのポケットに手を突っ込んでもぞもぞと動かした。引き抜いた手に挟まれていた物は手帳。取り調べでも始めるつもりなのだろうか。満明の背筋を寒気の虫が駆け巡っていた。

「本当にアナタはこのセカイでは素人なのね」

 美女は席を立つ。恋愛話の傍らで執り行われる男女の謎の会話によって作り上げられていた妙な空気は一変した。

 気が付いたときには張り詰めていて破裂してしまいそうな様を見せていた。緊張の理由が満明にはつかみ取れない。

「普通、どこの魔法使いかすら分からないような人には」

 美女が鋭い目を向けた先、そこにいる二人の人物は先程までカプチーノを飲みながら甘い話をしていたカップル。

 いつから話をやめていたのだろう。静寂に包まれていた。いつから節電でも始めたのだろう、音楽すら止んでいた。

「本名は名乗らないものよ」

 目を逸らすもの、意識を惹き付ける不純物が一切残されていない中、カップルは満明にある種の目を向ける。満明を丸呑みにしてしまいそうなまでに大きく膨れ上がり、人の形を残していなかった。人の持つ色から外れてしまっていた。

 カップルはそのまま満明に向かって歩み寄る。

「満明」

 堂々とした態度で飛ばされた声と反対方向に進むモノ、つまりは迫り来る二人、否、既に単位を変えてしまっているだろう横並びの怪物。彼らは一定のペースを保ったまま歩み続ける。

「かなて」

 この世の音とは思えない醜い音から生まれた意味は沈黙を叩き込む。

「みつあき」

 怪物が続けて名を呼ぶ間にも美女は手帳を開いていた。細い指が支える薄っぺらなそれは風が吹けば形を崩して失ってしまいそう。

「悪魔の宿命の幕開けよ」

「俺はどうすれば」

 きょろきょろと辺りを見回すその目は大きく見開かれていて、まさに初めて目にする光景なのだと表情が語っていた。

「満明はそこにいて」

 カップルは原型を残していなかった。コウモリのような翼の生えたブタと血のように紅く華やかなバラに身を包んだカエル。如何にも悪魔だと語り出す程の醜悪を纏った姿へと変わり果てていた。カエルはバラの花を見事に着こなしていた。ブタが目にも止まらぬ速さで飛びついて来た。ブタならぬ飛距離は翼を持ってこその所業であろう。

「食らわせてやるわ」

 その一言の直後、ブタの豊満な腹には氷柱が突き立てられていた。ブタは闇と化し埃の塊となって消え去って行く。

 カエルがゲコゲコと汚い声で泣き続ける。ゲコゲコゲロゲロ、下戸なのだろうか、吐き散らすのだろうか。余裕すら失ってしまっているはずの脳裏にそのような思考が生まれてきてしまうことに嫌悪感を覚えながらも相手を睨み続けることしか出来なかった。

 不快な声は次第に大きくなっていく。カフェ全体を覆う品の無い声と膨らみゆくカエルの身体。おぞましさの権化を目の当たりにした満明はついに考える余裕すら失い身動き一つ取れずにいた。

 現在の現実、現状を受け止め切れずにいた。

 膨らんだカエルの身体はぶよぶよと震えながら泥の香りを撒き散らす。一挙一動が嫌悪感と異臭を放つ。そんな決して近寄りたくない相手が飛びついてくる。

 美女は手帳を素早くめくりゆく。一つ二つ三つ、手早く捲られるページは動きを止め、共に女は何かを呟いた。

 手帳は透き通った冷たい輝きを放つ。冷気に充ちた光は女の手元に氷の剣を呼び出して。握られている剣は濁り一つ見せない芸術品のよう。

 剣を振るいカエルを斬り付けるも、カエルには傷一つ付いていなかった。続いて何度か斬り付けてはみたものの、揺れる身体に弾かれて威力を失っているようで。

 美女は舌打ちをしながら後ろに目をやる。

「逃げるよ」

 手帳を仕舞い「もうダメだ」「何がどうなっているんだ」と情けなく喚く満明の手を引き出口へと走る。美女の表情から余裕の笑みは消えていた。

 剣を床に突き立てドアを開けようと力を込めて引いて。わずかな動きさえも見せる事はなく固まっているドアはまるで石のよう。

何度か引いて、それでもダメだと叩き続けてもただただ静寂を守っていた。

「くっ、開かない」

 このままでは命諸共悪魔の居場所に閉じ込められてしまうことだろう。カエルの醜い鳴き声が悪魔なりの勝利のファンファーレのように聞こえていた。

 絶望を告げられても真昼の目から生への欲望が消え去ることはなかった。再び手帳を開き、いくつもの呪文を立て続けに撃ち出す。その全てがカエルに命中するものの、効いている素振りを見せないカエル。

 状況の一変すら許されていないように思えた。

「どうするんだ、もう助からないぞ」

 目の前の状況について行けずにただ慌てて焦りの想いを叫ぶ満明、飛び跳ねながら花を打ち出し始めたカエル、咄嗟に氷の壁を張り防ぎ続ける女、壊れた机と床に飛び散った木片。日常などとうに壊し尽くされそこにあるのは男がかつて否定した魔法使いたちの不思議なセカイだった。

 カエルの放つ花が無くなったその時、女はふと机に目を向けた。満明が頼んだものだろうか、上げる湯気を失ったコーヒーが入ったカップが居座っている。

「ごめんなさい、それ貰うわ」

 そう告げて剣を引き抜き勢いよく飛び出した。宙を滑るように進み、放物線を描いた彼女がたどり着いた先、机の上にしゃがみ込む姿が満明の目に焼き付いた。机に剣を突き立て手帳を開いてカップを手に取りカエルに告げる。

「満明の奢りよ」

 満明はようやく状況に慣れてきたのか美女が取ろうとしている行動を読み取るに至った。

「上質なコーヒーをいただきなさい」

 そう叫んで放つ花も飾る華も残されていないカエルめがけて投げつけた。カエルは右手でそれを振り払う。白くて固いモノは割れ、黒い液体も振れた。満明はそう思った。奇襲を仕掛けるための目眩ましだと確信を持って思い描いていた。

 しかしながら現実は異なる。振り払ったはずの黒い液体はカエルの右手にまとわりついたままカエルの右手を封じ込めたままに熱を失い氷と化していた。

「どうかしら」

 美女の扱う魔法は人の心さえ凍らせてしまうほどに冷たかったものの。

「私の心よりも遥かに冷たいコーヒーのお味は」

 この女の宿す生への執着は熱した鉄よりも熱かった。

 カエルは凍り付いた腕で机を必死に殴りつけ、黒い氷を少しずつ砕いて行く。ヒビが生え、飛び散る破片は数知れず。しかしながら破片の一つ一つがあまりにも小さすぎて氷はいつまでも姿を失わない。自由の獲得はあまりにも遠かった。

 その隙を逃すまいと女は剣を机から引き抜いて勢いよく地を蹴った。そしてたどり着いたカエルの身体を踏み付けてしっかりと握り締めた氷の剣で押し潰すように頭を叩き、脳天を貫く。カエルはこれまで奪い去っていた主導権を奪われた悔しさを嘆くように悲鳴を上げ、闇のように黒く変色する。やがて漆黒の石と化して砕け、埃のような細かな粒をばらまきながら消失した。

 目の前の敵に対してはしっかりと見つめる程度の冷静さを取り戻していた満明だったものの、目の前の女に向ける落ち着きは未だに取り戻せていないよう。女の肩を掴み激しく揺さぶり、捲し立てるように訊ねた。

「この状況は何なんだ、マスターは無事なのか」

「落ち着いて」

 女は声を張り上げるものの満明は事と心を通わせることが出来ずにいた。

「どうなってる、ここは本当にカフェなのか」

「落ち着いて」

 繰り返される言葉、一言一句違わぬ言葉は今の満明との会話は叶わないのだと指摘しているようにも見えた。

「ここから出られるのか」

 女は満明の胸に手を当てて瞬く時を力で制圧する。満明は一瞬の衝動に身体をよろめかせて力の向かうままに女から距離を取る。言葉は力を前にして潰えた。

「まずは落ち着いて」

 女の言葉を聞き入れて鈍色の目に沈黙の澱を積もらせて満明は改めて問いを投げていく。

「まず名前を訊いていいか、どう呼べばいいかすら分からない」

「そうね、私の名前」

 そう言って二秒もの空白、長く感じられる沈黙を経て発せられた言葉は確かに人の名前を音にしていた。

「アリシア・ウェスト、〈西の魔導士〉とも呼ばれているわ」

 形の良い唇を動かして発せられたその名は明らかな偽名だった。

「国籍から訊こうか」

 アリシアと名乗る日本人女性は求められたこととは全く異なる言葉を用意する。

「本名はまだ名乗らない、アリーと呼んでちょうだい」

 満明は不満を明るみにしていくものの、アリーは構わず現状を言葉にして満明に叩き込んでいく。

「ここはカフェだった場所、今では悪魔の巣窟」

 今更信じないという選択肢は無いだろう。満明はただ一度頷くのみ。話を聞き出す為に最も適した行動を選んでいた。

「最近失踪事件が起きているの、調べてみたらこのカフェに何度も立ち寄った人がいなくなるって」

「失踪、知らないな」

「世間のこと、もっとよく見たらいかがかしら」

 アリーの指摘はまさにその通り、しかしただただ素直に相槌を打つのも癪に感じられた。

「俺は正面さえ見えてりゃいいんだ」

 呆れを表に出したアリーを見つめ、ただただ欲望のままに己の語りを繋いでいった。

「男だからな」

 それはまさに彼を象徴する言葉。満明の男らしさはそこに佇んでいるのだろう。

「あなたの男らしさって、どこまでも真っ直ぐって事かしら」

 アリーの反応に口の端を吊り上げて反応とした。

 そんな満明の目をしっかりと覗き込みながら伝えたいことを選び続ける。

「とにかく、失踪事件を起こす悪魔を倒そうとしていたの」

 今は解決の段階にあるのだそう。

「まさかそんな時にアナタが来るなんて」

 不幸にも足を踏み入れてしまった男、次の被害者となるはずだった者、それが満明に与えられた役柄なのだという。

「それが宿命ってやつか」

 アリーは口を閉ざしたまま一度だけ頷いた。

 壁や天井には特に変化は見られない。この建物の大きさの割には狭いカフェ。カウンターの向こう側や休憩室が見られるのだろうか。

 満明が一人で勝手に想像を巡らせ独自の想像を繰り広げている様を見て何かを想ったものだろうか。アリーは果たすべき事を告げる。

「で、最後にマスターの事だけど」

「いい人だったな」

「私たちは」

 口を挟む満明に構うこと無く続けるアリー。きっと悠長に会話を続けている場合ではないのだ。

「彼を救うわけじゃない」

 氷の剣を背後に構えた。その刹那、衝撃と殺意が鋭い音の響きと共に交差する。

「殺すの」

 満明は音の根を追う。

「さっきの客二名と」

 予感してはいた。カフェに閉じ込められて繰り広げられる現状の中に味方か被害者が残っている想像など出来ない。

「残りの従業員四名の全員をね」

 背を守るべく構えていた剣が受け止めていた凶器を弾く。二人を地獄へと追いやろうとしている死神は兜を被り、細長い体を持っている。そこから生えた針の如き六本の脚、腕に抱えているのは一挺の鎌、その姿の全て、端から端、隅から隅までの総てが老い緑に染まっている。その姿はまるでカマキリのよう。

 そんな姿を睨みながらアリーは口を開く。

「カマキリのくせに鎌を一挺しか持たないなんてなり損ないだな」

 カマキリに言葉など通じるものだろうか、などと考えつつも悪魔たちの元の姿や会話を思い返して過去の言葉は通じているものだと確信を持つ。

「満明の言い回しを借りるなればこうかしら」

「借りなくていい」

 満明の声が耳に届くや否やアリーは更に口を開いてみせる。

「それだけの事が言える余裕がなければ宿命に勝つ事は出来ないわ」

 会話の隙を突いて羽ばたき猛進するカマキリ。殺意の光を漲らせた一撃に目を細めながら剣で受け止める。老い緑の鎌と透き通る氷の剣、手帳を手に取る余裕すら残っていないようでただ向き合うことしか出来ないのだという。

 どれだけの間であろうか、拮抗し保たれていた均衡が崩れ去る。気が付いたときには女の足が地を掴む感触を失い、掛かっていた力が急激に抜けていく。力のぶつかり合いでは勝てない、そう気付かされた時には身体は勢いよく木の柱にぶつかっていた。

 痛みに顔をしかめていたものの、ひるんでいる暇は無いのだと急いで手帳を取り出し、痛みがつける苦みを吐き捨てるように言い放つ。

「宿命なんて、言ってる場合じゃない」

 そもそも助かるかどうか、脅威の宿命は満明以前にアリーへと目を向け首へと鎌を向けているようだった。明確な言葉にするまでも無く危機だと目の前の光景が報せていた。

 手帳は二度の輝きを放った。瞬く間に傷は消え去り、痛みさえ過去の物へと変わり果てていく。まるで初めから無かったかのように。

「本気で向かうわ」

 そんな女の様子を満明はただ眺めている事しか出来ない。観察などとは程遠いただの閲覧しか出来ない。そこが今の満明の能力の限界だった。

 アリーは駆け出す。右手に剣、左手に手帳。状況など特に変わったようには思えない。魔法を扱う体勢一つ加わったところで相手の一撃を防ぐことで精一杯ならば先程と同じことを繰り返しているに過ぎない。

 しかし、その表情は自信に満ちあふれていた。

 手帳は輝き小さな氷のつぶてを幾つも放つ。まさに物質の軍勢を率いる姫のよう。氷が空気を冷やしながらカマキリへと向かって飛んでいく。大してカマキリは鎌を一度振り下ろすのみ。

 ただそれだけで氷の軍勢は全てが戦う力を失い散ってしまう。

 そうした瞬間を一つの拍と成して置いて、右手は剣を持ったまま地を向き、左手は手帳のあるページを開いて掲げられた。

「続けて行くわ」

 その手から手帳は離れて空を舞い始める。

 アリーの足は素早く地を蹴り、低空を滑るような勢いでカマキリの方へと迫る。

 鎌と剣がぶつかり合ったその瞬間、手帳は光り輝いて何かを勢いよくカマキリへと向けて投げ下ろす。

 満明は目にしてしまった。降り注ぐそれはこれまでのつららとは異なる鋭さを持った氷、アリーが今もその手に握っている芸術品の魔法と同じ希望の導き。

 アリーはカマキリから剣を引き抜いて飛び跳ねる。天を舞う紙の翼を持つ物質は飛ぶ為の力を失い落下を始める。

 互いに向かう線を結び付けられた先での出会い。交差する点でアリーの唇が優しく手帳を咥えた。そこから重力に任せて落ちる先、足が触れるのは老い緑の身体。足先が触れた程度だと錯覚してしまう程の軽やかさで更なる跳躍を加えて上がった先、そこから再び落下に身を任せていく。

 アリーの手に握られた二振りの剣は大きな虫の身体を貫きその場に立つ存在を闇の底へと葬り去った。

 埃に混ざって散っていく闇の塵を見つめながらアリーは剣を握る手から緊張の想いを抜いていた。

 床に剣を突き立て咥えていた手帳をコートのポケットに仕舞う。途端に満明は声を上げた。

「アリー」

 そこから瞬きすら許さない空白、しかしながらアリーの意識にとっては長すぎる空白の中で黄色の気配への対応に身体が追いつかない事を悔やんでいる間のことだった。

 満明は咄嗟に銃を構えて引き金を引いていた。密室を殴りつけるような轟音に包まれた一瞬、それを経て緑色の液体を流しながら何かが落ちた。落ち行く姿を目で追いかけ、槍を持った黄色と黒の身体を持った存在を確かめる。その姿は明らかに蜂を模した異形だった。

「ありがとう。頼れるツラになって来たじゃない」

 アリーの礼に応えて満明は言葉を静寂の中に靡かせる。

「アリーに助けられっぱなしじゃいられねえ」

「鉄輪真昼、それが私の本名よ」

 アリー、改めて真昼は片方の剣を床に突き立てたまま周囲を見渡す。倒すべき蜂は一匹では無かった。次から次へと姿を現し黄色と黒の警告の壁が出来上がる。危険を分かりやすく示した色はなに故に脅威を示す象徴となり得たものだろうか。

 細かな群れたちが飛び交い作り上げた渦に向けて満明は拳銃を向ける。そのまま一度、間を置くことなく二度三度。幾度目かの後に弾切れを確認しては補填してひとたび再びみたび。真昼はそんな彼の必死の姿勢に負けられないとでも言った態度で剣を床から引き抜いて目にも止まらぬ速さで振り回す。

 満明の視界には涼しい残像しか残されていない。

 辺りを見回し続けていた真昼、目だけだろうか、分からないものの神経を研ぎ澄ましている姿を見せていた。黙っていた彼女だったがやがて剣を天井へと向けて口を動かす。

「ここね」

 言葉と共に剣は天井を貫きそのまま引き裂いた。

 口を開けた真上の壁から落ちてきたのは女性らしさを纏ったような身体のラインを持った蜂。先程までこの場を覆っていた小物とは比べようも無い大きさを誇る黄色と黒のドレスを纏いし女王さま。

 そんな女王が地に着いた瞬間、真昼は剣を差し込む。

「どれだけ胸があれども脂肪如きじゃ私の殺意は防ぎ切れないわ」

 二振りの剣は蜂の身体を捕まえたまま広げられる。そのまま蜂は霧散し、この世より消え去った。

「さっきから気持ち悪い姿ばかりね」

「まったく、可愛げの無い女だったな」

 真昼は満明に向けて鋭い視線を射る。その目の鋭さは今も尚握られている剣のよう。しかしながら冷たさの種類と言えば剣が抱く気持ちの良い爽やかなものからはあまりにもかけ離れていた。

「お前の事じゃない、俺はキレイな女には優しいのでな」

 軽い口を剣など用いる必要ないとでも言わんばかりの真っ直ぐに伸びた姿勢のまま口だけで切り裂いてみせる。

「もう少しデリカシーってものを身に付けてみたらいかが」

「あれは消耗品さ、時と共に経年劣化で薄れて消えて行くものだろう」

「討つべきはあと二体」

 冷静でいられるはずも無いこの状況下で先程にも増して冷たい声を、鋭い眉毛を見た。

「行くわ」

 かつてはカウンターとして扱われていた台に飛び乗り言った。大切に扱われることを忘れてしまったそれ、少なくありながらも深煎りだった思い出を振り払い、真昼に倣って満明なりの方法、深呼吸で気を引き締めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る