山羊頭の魔神

焼魚圭

第1話 依頼

 木造のカフェの中、吹奏楽器の埃被った音色が部屋を満たす。人生の積み重ねにも似た含みある重い音色は聴く者にどのよう想いを産み落とすものだろう。満明はコーヒーの苦みの中に心を沈めて啜る。昇る湯気がこの人生の幻像を現像しているように見えていた。

 三十年程の人生の中、積み上げたものなど社会的には薄っぺらで得たものさえその手から滑り落してしまうという目も当てられないものでしかなかった。清掃の職に従事する姿は誰の目にも映ることなくただ己の人生という形の写し鏡となるだけ。そんな負け組という烙印を押された人々の一員としての業務を終えてカフェにてひと息ついているところだった。

 満明がこの場所を気に入っている理由は落ち着いた空間。そんな理想の心情の城を打ち壊す者がいた。

 満明の目の端でようやく捉えることの出来る距離を稼いだそこで談笑する若い男女はカップル。隣り合う席に腰かけて、コーヒーの誇り高き苦みをかき消してしまう程の量のミルクと砂糖を加えて漂う香りも香ばしい味わいも薄められてしまった甘いカフェオレを飲みながら、肺腑の何処で生み出されたのかそれすらつかせない甘い話を吐き出していた。

――そういう人もいるものだろうな

 ひとりひとりが持つ価値観などそれぞれ異なるものだということは満明も理解していた。あのふたりにとっては洒落た空間で子洒落た御話を分かち合うことに大きな意味を感じているのだろう。その会話に文句をつける権利など持ち合わせてはいなかった。

 見渡して初めて気が付いたこと。客は満明とカップルの二組だけでなかった。

 コーヒーを飲みながら紙の束と睨めっこを行っているスーツ姿の女性。真剣そのものとしか言い表すことの出来ない一直線の感情をその目に宿し、細くてきれいな指にて支えられた艶のかかった万年筆を素早く動かしている。見る者の目を瞬く間に惹く程に、すぐさま恥を覚えて逸らしてしまう程に整った顔立ちをしていたものの、マナーと言うものを知らないのだろうか。赤い輝きを宿しながら煙を上げる棒を咥え、煙を吸っては吐き出し店中を埋め尽くしてしまおうとしていた。

 顔に皺の刻まれた店主が眉を顰めて泣き寝入りを決め込もうとしている姿に見兼ねた満明は席を立ち、暗い茶色に髪を染めた女の視線を作業資料から満明へと引き付けた。

「人前で甘いトークを展開するのもいい、会社とやらの作り出した紙と睨めっこして忙しなく触り続けるのもいいだろう」

 惚気話ならば他所でやって欲しい。今どき若者向けのカフェは幾つでも建てられているのだから。そんな本音もこの女の存在によって立ち去っていた。

「だが、ここに湯気以外の煙は持ち込まないでくれ」

 その言葉を浴びせられても尚反省の色のひとつも見せない女に対して加えて言葉を浴びせる。

「どうしても吸いたいのなら、動かなくなった廃工場にでも行って代わりに煙を吐き出してろ」

 美女は舌打ちして力の抜けた仕草でポケットからコーヒーの空き缶を取り出し、まだ火を点けてさほど吸われてもいないタバコを押し付けながら尖らせた瞳を向けてみせた。

「イヤな男ね」

「イヤな男も何もここは禁煙だぞ。それも守れない程に頭のネジも緩み切ってるのか」

 女の声の色は目つきとお揃いで、感情むき出し敵意丸見え。このカフェの雰囲気に似合っていると言えば聞こえの良いもの。実際のところは一種の不愛想に近いものだろう。

「そんなアナタに忠告してあげる。不思議な存在に巻き込まれるわ。それもこの世のモノでは無い存在に」

 その言葉に満明は耳を疑った。果たして彼女が向かい合っている資料に綴られた文字は正気の沙汰を示しているものだろうか。殺害リストではないだろうかと考えるだけで恐ろしさが津波となって襲いかかって来る。

「ある男、私の昔の知り合いに宿命を背負わされた人がいたの。その男とよく似た目をしているもの」

「で、宿命を背負わされたソイツはどうなったんだ」

 美女の言葉に応えるように訊ねてはみたものの、満明の心の中では既に女の正気を疑っていた。その方面について訊ねたくて仕方がなかった。

 美女は満明の真っ直ぐな鈍色の眼を見つめ、まつげを揺らしまぶたを伏して顔を逸らす。それだけであまり良い結末ではないのだろうと伝えられたものだから不思議でたまらない。

 言葉にされない真実と話題を逸らすように開かれた口。心情によって噤む口と紡ぐ言葉の二つが並べられた。

「この街にいる限りは魔法使いの社会はそう広くは無い、けれどもここの外の魔法の世界は広い。そんな世の闇に飲まれないように気を付けなさい、力なき関係者」

 満明の中に呆れが生まれ落ちていた。それは容易く言葉となって女の耳へと順調に運ばれて行った。

「魔法だとかぬかすか。妄言吐きか煙吐きだか」

 女はいつの間にかタバコを咥えて火を点けていた。煙を上げる白い棒を同じと言っても差し支えないほどに細い指で挟み、口を離しては煙を吐く。満明の中で不穏な疑問が頭を出しては口をついて出てこようとしていた。

 女が漂わせる迷惑の象徴は更に満明の鼻を突いて行く。幾度となく抑え込んでいた疑問、更なる闇や争いを避けるためにも懸命に押し込んでいた言葉は遂に破裂して音となる。

「お前が吸っているそれ、本当にタバコか」

「ええ。もちろんタバコよ」

 そう言って美女は鞄から取り出した小さな白い箱に収められた棒を一本取り出し男に差し出す。

「吸ってみれば分かるわ」

 滑らかな指の動きに艶めかしさを覚える。そんな動きは誘惑となって心の芯にまで柔らかく忍び込んで来るもののしっかりと断ち切ってみせた。

「禁煙だぞ」

 それでも差し出す女、それ程までに己の無罪を証明しようとしているのだろうか。そこまで考えて満明は思考の方向を回れ右。女の欲望とそれに向けた行動を思い描いて言葉を返す。

「吸わせることで注意する権利を奪うつもりか、そうは行かないぞ」

 美女は舌打ちして満明を睨み付けた後、再び鞄の中から白い紙箱を取り出してタバコを仕舞う。

「本当にイヤな男」

 資料は重ねられ、鞄の中へと滑り込むように放り込まれる。

「でも、そんなところが好きだった」

 しんみりとした空気感をシックなカフェの中に煙と共に漂わせながら美女は立ち上がる。どこの時間を見ているのだろう、その目に映る時間はきっと満明の眼には映すことも叶わないものだろう。今となっては彼女だけの特別製の映像。そんな過去のフィルムに焼き付けられた映像と共に今を見つめて進み続ける彼女はふと立ち止まり振り返る。

「精々気を付けなさい」

 去り際のひと言を置き土産として木製のドアの向こう側へと身を移し小さな窓枠からさえも見えなくなった美女を延々と睨み続け、静かに言ノ葉を吐く。

「好きな人と重ねて説明も無いのか。女というものは分からないな」

 いつの間にカップルは立ち去ったのだろうか。ただ一人残された男はイスに腰掛けコーヒーカップを再びその手に取り、すっかり冷め切ったコーヒーを静かに啜り、マスターの安息の表情を目にしてすぐさま窓の向こう側へと目を逸らす。

「客は一人しか残らず、か。災難だったな」

 マナーを知らない客という者は客と呼ぶに相応しい者なのだろうか。

「お客様は神様だとかいうものの、禍神だの疫病神だの、いらして欲しくないものだな」

 満明の顔には苦労の滲み出た皺が刻み込まれ、髪にもところどころ白髪が混じっていた。齢三十とは思えない程の年季を感じさせる乾いた手でカップをつかみ、人生の苦味を重ねたような味わいのコーヒーをもう一度啜り、舌に絡めては大きなため息をついてみせるだけだった。



  ☆



 高校を卒業後、大学へ入学するも二度にわたる留年で己の限界を頭の表面にまで伝えられて中退、幾度もの転職を目にも止まらぬ速さで繰り返し、大して給与の高いわけでも無い清掃職へとごみの掃き溜めに追いやられるかの如き運命の流れで流されて7年もの歳月を経て身を燻らせ続けていた。

 それがこの男の現状である。転がる石に苔は生えない、世界のどこかにて使い古されて転がっている言葉を日本という地で拾い上げてはまさにその通りだと頷くほか無かった。この男に積もったものなど言葉に表せる程に立派なものも無ければ態度に示すことで恥さらしと呼ばれる程度のものしかない。そんな人生の跡地からでも感じられる年季は転がり続けたが故の傷によって刻まれた轍だからだろうか。

 男は年季だけしか感じさせない身を、世間のカビに塗れて腐り果てたようにも感じられる身体を友人宅へと運んでいく。友人は昔からオカルトが好きで日々様々な実験や石を床に転がして目を閉じ何かを受信するといった儀式などを行っていた。

 そんな彼がこの話を聞けばどのような顔をするだろう。満明にとっては完全に話のネタの一つに過ぎなかった。

 鈍色の眼はいつもと変わらない景色を見通している。踏み続けている道路は土や埃、タイヤ痕にて荒らされ目も当てられない様を見せつけていた。畑の数は昔と比べて少し減っただろうか。バスと電車を乗り継げば一時間足らず、五百円強の出費で都会にたどり着く、ワンコイン出社の可能な土地、居心地の良いベッドタウンとしての開発は少しずつ進んでいた。

 そんな中でも未だに残り続ける自然の力強さにうなりながら歩き続けてたどり着いたアパートの一階。古びたアパートはいつからそこに建っているのだろう。日に焼かれて色褪せて、影の染みつきが目立って仕方がない。そんな安っぽい建物の一階の三号室。ドアの前にまで歩み寄りそのまま勢い任せにベルを鳴らす。

 待っている間にその目は捉えてしまった。夕暮れだった空は過去のもの。気が付けば明るい闇に覆われて妙な黒に染まり、輝く星は分厚い雲に隠されていた。ドアは錆び付いた音を立てながら開く。出てきたのはやせ細り、目の下に分厚いくまをたたえた男。

「なんだ、満明か、何の用だ」

 久しぶりだろうか、そうでもないのだろうか、三ヶ月程度の空白の時間を置いた再会は満明の口から違和感を押さえ付けた言葉を捻り出す。

「久し振りだな、浩一郎」

 気のせいでしかないのは分かっていたものの、会うたびに変化として感じ取ってしまう事がつい言葉となって飛び出してしまう。

「国民の飼い主共が俺たち家畜から巻き上げた税金でぶくぶく太る一方でお前はまた痩せたな」

 浩一郎はやつれた顔を歪め、やせ細った声を絞り出す。

「お前の方もな。お陰さんで最近は新しい道具が買えやしない、もう知りもしない」

 互いに過去から汲み出した思い出を見つめ合っては失ってしまったものしか語ることが出来ないという現実を受け止めつつ当然のように抱いた感想を零した。

「しかし満明、お前また老けたな」

 皺はますます深くなる。互いにかつての元気の跡形さえ失われて若き日々が色褪せ掠れてしまっていることを実感していた。

「苦労してんだ。今となってはカフェインが常備薬なんて有り様さ」

 ここ数年は様々なカフェを巡り、曖昧で上手く言葉に表すことの出来ない理解で確実にコーヒーの味や香り、温度の伝わり方の違いを全身に巡らせ記憶に強く刻み付けていた。

「それより聞いてくれ。さっきの女がカフェで変な事を言ったんだ」

 洒落たカフェで起こった出来事。正気の沙汰とは想えない不思議な発言を行う女とのやり取りを全て話してしまった。一から十までの全て何もかもを。

 やつれた男は口を鋭く広げ、薄暗い笑みを見せながら満明を指した。

「そいつはお前の大好きな状況じゃないか」

「冗談じゃ無い」

「聞けよ」

 満明の言葉などなにひとつ通らないものだろうか。本音そのもの、純粋な喉の鐘の音さえ理解してはもらえないほどに遠ざかってしまったものだろうか。

「オカルトの領分に関わるような事を言われて否定したのに骨の髄までオカルトに染まった俺に持ち掛けたんだ」

 沈黙が回答だった。まさにその通り、異見は一切あり得なかった。

「遠ざかりたいのに自分から近付いて行くなんてな」

 言われてみればそうだ。己の願望と実際の行動の差によって生まれた温度差に満明は頭を抱えた。そんな様子をしっかりと目に納めて浩一郎は優しい声をかける。

「だが大丈夫だ」

 優しさは天使のよう。しかしながら満明はその男の表情に棘のような薄暗さを感じ取った。目の前に立っている男の実の種族は悪魔なのだろうか。

「これ以上その女に、宿命ってやつに関わらなくていい方法を教えてやるよ」

 浩一郎は満明に近寄り、コートのポケットに何かを忍ばせる。満明はそこに異様な重みを感じた。すかさずそれを手に取り確認する。黒光りするそれは人を殺す存在、鉄の重みは人の命と相反する重みだった。

「法律違反だ」

「かつて『国の犬共の作った文字列などに従う必要は無い』何て言って車で暴れ回っていたのは誰だったか。その頃に戻ればいいだけだろ」

 満明は浩一郎を睨み付けた。鈍色の目もそこに宿る感情も拳銃の重みが似合う無機。

「お前の頭には本を読んだ記憶しか詰まってないのか。あれで事故を起こして免許も政府の飼い犬に没収されただろう」

 高速道路で制限速度を大幅に上回る速度で遊んでいたあの日。高速であればいいというわけではないのだと気付かされたのは曲がり損ねて壁に激突したあの日のこと。そのような事故に遭ったにもかかわらず事なきを得られたのはまさに奇跡としか言いようがなかった。

「あぁそうだったな。あとあの時助かったのは〈俺が魔法を使った〉からだ」

 言葉に歪みが射し込まれる。満明は頭を抱え、襲い掛かって来る痛みに押さえつけられるように床に伏す。

「あとお前が会った迷惑喫煙女は〈俺にとっても迷惑〉だ。きっとその内〈ここまで嗅ぎ付けて来る〉だろう」

 一つの音、一つの言葉、一つの繋がり。それらの繋がりが重々しく響いてふらふらとした心地に回されて意味の理解すら拒みたくなってしまう。

「そうなるより前に〈さぁ、やれ〉よ」

 何もかもが簡単な言葉、意味の理解の方向などただ一つ。その方向へと進む事を止める事など出来ずに頭が納得を滲ませていく。

「これは〈命令〉だ」

 頭がぼやける。視界が朦朧として前を見ているのかよそへと逸れているのかその判別すらつかない。満明の全身から力が抜けて浩一郎の言葉に逆らうことが出来ずに話を素直に耳に入れるしかなかった。

「クライアント鹿屋浩一郎から金出満明への依頼だ。ターゲットの魔導士の女を殺害せよ」

「あいよ、やればいいのだろう」

「金ははずむ。頼んだぞ」

 それだけ残して満明は浩一郎宅を後にする。古びたアパートの群れは眠りに行く人々を収容する監獄のように見えた。

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