第13話 開戦準備
戦支度は驚くほどの速さで進んでいった。
元々、ラニエーリが父エンリコを迎えに行く際、市民感情を抑止する意味で、戦争の準備だけは形としてやっておきましょうと提案していた事が原因だ。
形だけとは言え、準備をしていたのが、評議会での結審の後、国を挙げて総動員体制に移行した。
実際、船大工や職人は大忙しであり、船の建造から、艤装の換装まで仕事がひっきりなしにやってくる。
武器職人も同様だ。
軍船に取り付ける各種兵装はもちろんの事、水兵たちの装備品の製造に余念がない。
他にも兵糧や矢弾、揃えなければならない物品はいくらでもある。
人手がいくらあっても足りず、求人募集も後を絶たない。
そして、これらを惜しみなく浪費するのが、“戦争”という愚行だ。
人も、物も、次々と戦場に投じられる。
文字通りに十把一からげにして、投げ捨てられる。
投機であり、投棄でもある、古くから人間の社会にて起こるべくして起こる事象、それが戦争だ。
(見た目だけならこれ以上にない好景気なのだが、沈む事を前提にした軍船ばかりと言うのがいただけない。自ら進んで鉄火場に乗り込むなど、商人の有様ではない)
なお、出てきた新造艦を盲目であるエンリコは見る事が出来ない。
しかし、長年培ってきた商人、船乗りとしての勘はある。
波を切る音、あるいは風、船を感じるのに必要な要素はそこかしこにあり、敢えて目で見る必要すら感じてはいなかった。
活気と喧騒は紙一重。
そして、今エンリコが感じている熱気は、間違いなく後者のそれである。
「……復讐は、報復は、人を突き動かす原動力や理由にはなる。だが、ともすれば全てを焼き尽くす業火にもなり得るのだぞ」
ぼそりと呟くエンリコの声だが、聴いているのはすぐ横にいる息子のラニエーリだけだ。
今のヴェネツィアでは糾弾されかねないぼやきではあるが、父の意見には賛成であるラニエーリも押し黙っていた。
その懸念の材料が目の前のを横切っている船にある。
船の名は『
船長も乗組員も熟練であり、想定よりも短い期間で運んでくれた快速のガレー船で、普段は商船として運用されている。
しかし、今は改装を受けて艤装を交換し、軍船へと様変わりしていた。
ダンドロ親子の目の前を横切る際、顔馴染みの船長が二人に気付き、甲板上から手を振ってきて、ラニエーリもまたそれに応じて手を振った。
「船長! あんたの言う通り、とんだ大損害だな!」
「なぁに、負債は全部、帝国の奴らに押し付ければチャラですよ!」
「ハハッ! そりゃそうだ!」
かつて道すがら他愛無い談笑をしていた二人ではあるが、先は良く見えているのは互いに認識していた。
戦争は不経済、という共通認識を以て。
しかし、今は戦争を望まぬ者達であっても、戦争に赴かねばならない。
それが“民意”というもので、共和制を国是とするヴェネツィアでは、議会での決定が優先される。
選ばれた議員の多数決こそ、優先されるべき案件だ。
議論は成され、その結果として“戦争”を選択した。
帝国の傲慢な態度に憤激した民衆の熱が議会すら制圧し、今や国全体が戦争の熱にうなされている状態で、それを押し留めるには鎮める材料に乏しかったためだ。
熱病によって心身が壊れぬうちに、目が覚めればよいがというのが、開戦消極派の偽らざる本音であり、嵐の海に船出する気分に陥っていた。
もちろん、いざ戦うとなれば全力で戦う気ではいるが、それでもと思わざるを得ないのが商人としての打算である。
市民感情を無視できるのであれば、そうしたいのは山々だ。
「おお、『
不意に声をかけてきたのは、
しかし、周囲に取り巻きや懇意の議員もおらず、秘書官も帯同していない。
ラニエーリはすぐに“人払い”を察し、そそくさと辞去した。
そして、その場にはエンリコとミキエーレだけが残った。
長年の顔見知りであり、友人と呼んでも差し障りのない程の仲で、帝国との交渉にエンリコを推挙したのもミキエーレだ。
しかし、偶発的な火事からの難癖という事態は流石に想定外であり、それに対処しきれなかったエンリコは友人へのやるせなさでいっぱいだ。
「なあ、エンリコよ、此度の戦、どう思う? ダンドロ家の当主として、答えてくれ」
「ダンドロ家の立場としては、反対だ。理由は簡単。利益にならんからだ」
商人であれば、まず儲けの事を考えるのは当然である。
人や品を船に積み込み、あちこちの港を渡り歩き、売り買いしては利益を得る。
それこそが商人のあるべき姿であり、武装した軍船に乗り込むなど、本音を言えば嫌なのだ。
もちろん、そんな奇麗事だけで済まされない事も知っている。
海賊が積み荷を狙って襲ってくる事もあるし、あるいは異教徒の海軍と戦闘する事もある。
海上覇権を巡って対立する、ジェノヴァとのいざこざも後を絶たない。
護衛なしでの航海など、今となっては厳しい情勢なのが地中海の現状だ。
「
「
「ならば、それを飲み込み、我らこそ正統なるローマ帝国の後継と宣言すればいい。エンリコが言うように、帝都コンスタンティノープルでも制圧してな」
「そんな兵力がどこにある? 仮にできたとしても、どうやって維持をする? 絵空事に過ぎんよ」
述べた当人であるエンリコでさえ、帝都制圧など不可能だと考えていた。
なんといっても人員不足が大きい。
海戦では圧倒的に強いヴェネツィアと言えども、丘の上では打ち上げられた魚に等しい。
海を支配するヴェネツィアと、陸を支配する“何か”があり、両者の間でガッチリと握手が交わされて初めて成立する夢物語だ。
「どいつもこいつも、ヴェネツィアを警戒している。海の支配権が、陸を侵食するのを恐れているからな。ビザンツ帝国は元より、神聖ローマ帝国、ローマ法王庁、十字軍国家、表面的にはにこやかな笑みを浮かべてはいるが、それでもこれ以上の伸長は望んでいない。海の勢力はあくまで補助的な役割でいろ、とな」
「いっそ、イスラームの連中と手を組むか。最近勃興したアイユーブ朝のサラディンであれば、案外乗って来るかもしれんぞ」
「
「気兼ねなくこうした事を話せる相手は、なかなかにいないからな」
「だが、そうした態度も嫌われる原因なのですぞ。法王庁が目くじらを立てるのも無理からぬことだ。異教徒と握手を交わすなど以ての外だ、とか言ってな」
「儲ける事が商人の第一ではないかね?」
「それを言われると、返す言葉がありませんな」
ニヤニヤと笑う二人ではあるが、それが出来ないからこその現状だという事も理解していた。
カソリックを信奉して西側と通じ、ほぼ独立しているとは言え、ビザンツ帝国の一員だと言っては東と通じている。
その巧みさ、あるいは“節操のなさ”がヴェネツィアを嫌われ者にしている。
ここに“異教徒との本格的な貿易協定”などと言うものが加われば、今まで以上に嫌われる立場に追いやられる。
それを跳ね返せるだけの力は、ヴェネツィアには“まだ”存在しない。
商人は商人として商売に精を出したい。
しかし、信仰と、政治と、それを取り巻く人々の感情が、それを妨げている。
それを気にせず“自由”に商売できる日は来るのか、それは聡明な二人の眼を以てしても見る事も予想する事も出来なかった。
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