第12話 決議
「それで結局のところ、開戦に賛成のお歴々はどうするつもりなのか? どこまで軍を進め、どこを目的とし、何を得て勝利と言うのか?」
熱を帯びた議場に、冷ややかなエンリコの声が突き刺さった。
エンリコ自身、彼らの心情はよく分かるし、共和国の自由を脅かす帝国に掣肘を加えたいとも考えている。
また、失われた眼の事もあるし、叶うならば皇帝マヌエルの目玉でも
だが、彼には最も優先すべき事象がある。
すなわち、“それが儲かるかどうか”、ただそれだけなのだ。
なにしろ彼は誰よりも“ヴェネツィアの商人”であるからに他ならない。
「どこへ行こうと言うのかね? ダルマチア地方の完全制圧か? さらに進んで、ギリシャ・ペロポネソス半島を手中に収めるか? それもいいだろう。アテネとエーゲ海の群島を手にすれば、利益は莫大だ。どこへ行くのも自由、実に素晴らしい」
実際、エンリコ自身が夢見ている事でもある。
ヴェネツィアはアドリア海側のイタリア半島の付け根に存在する海上都市だ。
ヴェネツィアをひっくり返せば森がある。そう謳われるほどの数の杭が土台となって作り上げた海上都市、それがヴェネツィアだ。
塩を作り、魚を獲って方々に売りさばいてきたのが、ヴェネツィア商人の始まりであり、今やその行動範囲は地中海全域に及ぶ。
しかし、地中海に出るためにはアドリア海を抜けねばならず、その安全な航海を考えると、ダルマチア地方は出来る事なら自分達自身で押さえておきたい要衝だ。
実際、ダルマチア地方の沿岸部にはヴェネツィアの勢力が根付いており、
エーゲ海の島々も魅力的であり、その光景を思い浮かべるだけで生唾を飲み込む議員がいるほどだ。
それさえ手に入れてしまえば、東地中海での海上覇権を約束されたようなもの。
ビザンツ帝国に勝利すれば、それらを賠償金代わりにふんだくる事が出来ると、エンリコは暗にほのめかした。
だが、それも全ては“勝てば”の話であるが。
エンリコ自身、そんなものは絵空事だと考えており、その表情は「できるのであればやってみれば?」と言わんばかりに冷笑的だ。
「いっその事、帝都コンスタンティノープルでも攻め落とすか? まどろっこしい駆け引きもなしに、帝国を我らで好き放題できるようになるぞ」
これもまたとんでもない話であった。
帝都コンスタンティノープルは世界有数の大都市であり、名実ともに帝国の心臓部である。
そこを制圧できれば、まさに帝国を乗っ取ったに等しい。
しかし、何度も言うが、それもこれも“勝てば”の話だ。
エンリコは話こそ振るが、
(そう。圧倒的に兵力が足りていないのだ)
海戦であれば勝てる。優れた操船技術に練度の高い船員、船の数、海上戦力で言えば、ヴェネツィア共和国はビザンツ帝国を圧倒する。
しかし、“総人口”については、文字通り桁違いなのだ。
なにしろ、ヴェネツィアは各地に商売などで出かけている同胞を含めても、総数で十万を超える事はない。
一方、帝国側は帝都だけで四十万からの人口を抱えており、帝国全土の人口ともなると何十倍にも膨れ上がる。
その数の差こそ、最も恐るべき敵なのだ。
(海戦では勝てる。だが、それが何だと言うのだ? 最終的に敵の拠点を制圧し、城下の盟を誓わせねばならん。そして、それを成せるのは“陸兵”なのだぞ)
“
制圧時はもちろんの事、その後の治安維持や拠点防衛のために兵を駐留させておく必要がある。
そんな事を地中海全域でやれば、たちまち“人的資源”が枯渇する。
限りあるヴェネツィアの同胞を配するには、世界は思いの外に広いのだ。
エンリコは世界の広さを知っている。
商人として、あちこちに出向いていたからこそ、それを肌で、頭で、五感全てで感じ取っている。
(傭兵を雇い入れるにしても、それはそれで金がかかる。結局は各所の拠点の管理を誰かに任せ、
今までのヴェネツィア共和国とビザンツ帝国の関係がまさにそれであった。
もちろん、タダでそうなったわけではない。
帝国の危機に馳せ参じ、海上戦力や海上輸送を武器に外敵を排除して手にした特権だ。
その特権がいい加減、厳しくなってきたのが昨今の帝国の懐事情。
皇帝マヌエルと直にやりやったからこそ、エンリコはそれを痛感していた。
(とにかく金が欲しい。少しでも金を手にして戦費を調達したい。その感情が、焦燥感が、今の帝国を支配している)
四方八方敵だらけ。取って取られてを繰り返し、毎年と言わず、毎月国境が変わるのが帝国と周辺諸国の関係だ。
だからこそ、エンリコはそれを見抜き、皇帝マヌエルにかなりの金額の資金を約束したのだ。
もちろん、提供ではなく、低金利とは言え、借金ではある。
回収する気満々。回収できなければ、それを理由に要衝の島でも譲ってもらい、借金を棒引きにしても良いとさえ考えている。
(遅かれ早かれ、帝国はさらに衰退する。大事な柱であるヴェネツィアとの関係にひびを入れたのだからな。いくら腹が空いたからと言って、柱をかじっていたら、家が倒れるのは道理ではないか)
誰も彼もが短絡的、そうエンリコは感じていた。
そう、“味方”も含めてである。
開戦を叫ぶ連中からして、近視眼的なのだ。
市民感情を恐れ、国家百年の計を立てる事が出来ない臆病者、あるいは無思慮の者が目立つし、声も大きい。
それに押されている穏健派にしても、やはり市民感情の暴発を恐れている。
“少し”待ってから情勢が動くのを見極める。その間は大人しくしていて、来るべき日に備えると言うのが、エンリコのおおよその考えだ。
(私は
エンリコは誰よりも待った。
父親が思いの外に長生きで、壮健であったため、ダンドロ家の家督は六十を過ぎてから彼の手元にやって来た。
であるからこそ、エンリコは“待つ事”には慣れているし、待っている間に準備を整える知性や抜け目のなさもある。
だが、それを持ち合わせている者は、議場にも、表で騒いでいる市民にもいない。
誰しもが、エンリコほどの知性や忍耐力を持っているわけではないのだ。
「開戦! 開戦! 傲慢極まる帝国に掣肘を加えるべきだ!」
「そうだ! もう泣きを見ても遅いぞ!」
「海は我らのものだ! それを妨げる者は、断固とした態度で出るべきだ!」
熱病にでもうなされたかのような積極派の叫びに、エンリコもいい加減、うんざりしてきた。
目が見えない分、耳だけで外部からの刺激を体内に取り込んでいるため、殊更その甲高い声に嫌気を覚えるというものだ。
待て、そう言いたい。
聞き入れてはくれないだろうが それでも待てと言いたいエンリコだが、それを聞き入れる者はいそうになかった。
結局、開戦積極派の勢いに押され、帝国との戦争を決定する。
万雷の拍手の中、ある意味で最も気高く、そして、“最悪の選択”を評議会は決してしまった。
(なかなか上手くはいかないものだな)
途中から説得を諦めたダンドロは、湧き立つ議場の中、ただ一人、ため息を吐いて気のない拍手で渋々ながら“了”を示した。
無理だというのに、どこまでも突っ走る。
今、ヴェネツィアは破滅へと進みつつある。
“法”や“利”よりも、“情”を優先させるなど、商人としては落第だ。
誰も彼もが“ローマの亡霊”に今なお縛られているのを、ただただ冷静に感じ取る盲目の老人は、ままならぬ状況に
そして、危機を好機に変えられるのも自分だと考え、今はやはり“待つ”時期なのだと言い聞かせながら。
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